24年前の今日、神戸では大きな地震が起こりました。
その時の揺れは今でも、私は鮮明に覚えています。
下からドーンと突き上げられたと思うと、ガタガタという凄まじい横揺れが続き、自宅は潰れるかと思いました。
私は当時、二中で3年生の学級担任をしていました。
ちょうど私学願書のチェックを始めていた頃だったと思います。
学校に向かう途上では、信じられないような光景を目にしました。
大きな岩が道路に転がっていました。信号は消えていました。
学校へたどり着くと、トイレの天井からは、壊れた水道管から水が流れ落ち、職員室の自分のスチールロッカーは、平行四辺形型にひん曲がっていました。
それから、神戸方面の惨状が刻々と報道されました。
犠牲になられた方々のご冥福を、心からお祈り申しあげます。
さて、三中では今日2限目に、地震が起こったとしての避難訓練を全校生徒と行いました。
お隣のせいなん幼稚園との合同訓練でした。
三中の生徒が園児を迎えにいき、体育館まで連れてきました。
全校生徒が集合して、点呼をクラス別にとり、全員の避難安全を確認後、保健委員の生徒が、防災紙芝居(NPO法人かすみん作)を、スライドとともに読みました。
そのあとの、私からの講評を伝えました。
園児向けには、『地震がおきたら』という神戸市消防局の企画協力で作られた絵本を、私が読み語りしました。
三中生向けには、以下の話をしました。
地震のとき、中学生は守られる人でもありますが、同時に守る人です。
2011年3月11日、東北地方の地震が起きああと、岩手県釜石市の釜石東中学校ではこんなことが起こっていました。
生徒たちは、地震のあと、校内放送など聞かずとも、自主的にグランドを駆け抜け、「津波がくるぞ」と叫びながら避難所に指定されていた「ございしょの里」まで移動しました。
日頃からいっしょに避難する訓練を重ねていた、隣接する小学校の小学生たちも、後に続きました。
ところが、避難場所の裏手は崖が崩れそうになっていました。また、津波はございしょの里のすぐ下まできていました。
そこで、ある一人の男子生徒がさらに高台に移ることを提案し、全員が避難しました。ふと来た道をふり返ると、津波によって空にはもうもうと土煙が立っていました。
その間、幼稚園から逃げてきた幼児たちと出会い、ある者は小学生の手を引き、ある者は幼児が乗るベビーカーを押して登りました。
それから間もなくして、ございしょの里は津波にさらわれました。子どもたちは、間一髪で高台にたどり着いて助かったのでした。
釜石市ではほかにも、学校の防災学習で習ったことを、子どもたちが思い出し、市内の全小中学生は99.8%が助かりました。
また、神戸市立鷹取中学校には、学校を休みがちな一人の女子生徒がいました。
彼女は阪神淡路大地震で被災しました。
自分の家が崩れ、下敷きになったとき、いのちをかけて家族を救おうとする両親の姿を見ました。
それ以後、彼女は鷹取中学校の避難所に通ってくるようになりました。
彼女は、病院にいる、体の衰弱したあるばあちゃんに、お弁当をはこび、200日間世話をし続けました。
おばあちゃんは、その後なくなりました。
なくなった日、その女子生徒が校長室にやってきました。
「先生、おばあちゃんが、きょうありがとうと言って、わたしの手を握ってくれた。そのあとおばあちゃんはなくなったんですよ」
その後、彼女は「生きよう。いのちをたいせつにして」と学校に来るようになりました。
(この鷹取中学校のエピソードは、当時の校長であった近藤豊宣さんから聞きました。)
特に中学生である三中生のみなさん。再度言います。
きみたちは守られる側でもありますが、守る側でもあります。
地震が起こったら、小学生や幼い子や高齢者を連れて逃げるのです。
きょう三中生は、このことだけは覚えておいてください。