箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

スポーツで人をつなげる

2021年01月31日 08時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ

NIKE社の動画広告をご存知でしょうか。

YouTubeで2020年11月から公開されています。

動画の名前は「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn’t Waiting. 」です。




この動画は、日本での在日外国人問題に関係したいじめを取り扱っています。

NIKEジャパンは、この動画について次のような説明を加えています。

「スポーツを通じて世界を一つにすることが企業指針である。NIKEはすべての人に平等な競技の場を作りたい」

この広告は、アスリートが実際に日本で受けた体験をもとにストーリーが組み立てられています。

動画には、サッカー少女が何人か登場します。

チョコレート色の肌の女子がいます。

チマチョゴリを着た在日韓国・朝鮮人の子も出てきます。

まわりの子となじめない様子が映され、女子生徒がいじめを受けたり、疎外されたりします。

女子生徒のつぶやきが流れます。

「わたしってナニモノ?」
「わたし、期待外れなのかな?」
「ふつうじゃないのかな?」
「ここにいちゃダメなの?」

それらを打ち消すかのように、サッカーで活躍して自分の居場所を持ちます。

そして、動画の最後には「You Can’t Stop Sport.」(スポーツはやめられない。)というキャッチフレーズが鮮やかに映し出されます。

私は、このフレーズを「スポーツがあるからいじめに負けない」という意味であると解します。

スポーツの世界では、民族差別・人種差別、その他の人の尊厳をおとしめる行為に反対して、多様性を尊重しあう姿勢を重要視するのが今の時代です。

たとえば、2014年にサッカーJリーグ浦和レッズのサポーターが「JAPANESE ONLY」という横幕を掲げました。

その制裁として、浦和レッズは国内はじめての無観客試合を行いました。

また、テニスの大坂なおみ選手は、「Black Lives Matter」のアピールをしました。

今回のNIKE社の動画は、スポーツ企業の社会的責任として、そのスタンスを明らかにした、いわゆる「意見広告」のようなものです。

いじめや排除は教育現場に限らず、日本社会の閉鎖性に基づく課題であり、マイノリティ当事者の声は、私たちにいろいろなメッセージとなり、考えさせられるものがあります。

しあわせはどこにある?

2021年01月30日 08時26分00秒 | 教育・子育てあれこれ
先日のTV番組で、世界各国の年末年始の過ごしかたを特集して紹介していました。

シンガポールでは、縁起をかつぎ、テーブルに置いた大皿に盛ったサラダを、家族全員がフォークですくい高くもちあげます。

サラダは大皿からこぼれ、テーブルの上はサラダまみれになります。

それを後で食べるのですが、家族たちは実に楽しそうでした。

また、スペインでは大みそかに赤い下着を身につけ、新調することが若い人たちの中で多いそうです。

こうすると恋愛運が上がるとか。テレビに映し出された人は、ズボンからはみ出した赤いトランクスを「チョイ見せ」して、楽しそうでした。

それらの人たちは、ほんとうに幸せそうでした。

そこで、感じたことがありました。

それは、幸せとは、「なにを幸せだと思うか」を見つめることだということです。

日本人からみたら、「食べ物をいっぱいこぼしてはしたない!」とか「真っ赤な下着を見せて楽しいの?」というように、まわりの人がどう思うか、どう感じるかを気にするでしょう。

日本では、まわりの人へどう映るかを気にしすぎるのではないでしょうか。

そして思うのです。

多くの人がスマホをもち、SNSに投稿します。

そこでは、まわりの人びとの評価を気にします。

「いいね」を何人が押すとかフォロワーの数が何人になったかが気になります。

でも、「自分はいったい、幸せとは何だと思うか」をじっくり見つめ、考えることのほうが大切だと思うのです。

内面の自分を眺めてみる

2021年01月29日 08時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「人と人が間隔を開ける」という意味で使うソーシャル・ディスタンス(social distance)は、英語を日常的に使う人たちの間では、通じないと言われています。

social distancingとかphysical distance,safe distanceなら通じるようです。

さて、新型コロナウイルス対策として、他の人との間隔を開けることが強調されて、ずいぶん長くなってきました。

そこで、ふと思うのは自分自身という存在と自分の内面との間隔はちゃんととれているかということです。

いま自分がどんな状態かを、まるで他人が見ているかのように、ちょっと離れたところから自分で見つめてみるのです。

自分をいわゆるメタ認知するのです。

何か腹立たしいことや悲しいことがあったとき、冷静に自分を客観的に見てみたら、気持ちが変わることがあります。

私って、あの人のあの言い方に腹を立てていたけど、よく考えてみると、最初の非は私にあったのかもしれない。

腹立たしいとか悲しいというのは、その人の感情です。

この感情が前面に出て、冷静に考えることができないのです。

ところが、自分を少し離れたところから眺めると、感情が離れていき、理性が蘇ってきて、ものごとを見つめ直すことができるのです。

内面の自分を見るというのは、その人の「余裕」とか「ゆとり」または「あそび」があってこそできます。

わたしは、学校教育のなかで、長年中学生と接してきましたが、中学生も年齢が上がると、だんだんと、自身を客観視できるようになります。

じつは、客観的に自分を見つめることができるようになることは、教育的にはとても意味のあることです。

「今までは気がつかなかったけど、過去の自分といまの自分を比べて、これができるようになったね。わたしって成長したんだ」

こんな気づきを手に入れた子に、たくましさを感じたことが、私には何度もありました。

自身への自信を高めた子は、生活や学習への意欲も向上するのです。

内面の自分との距離を開けることを、中学生には伝えたいと思います。

臨時的に任用される教員

2021年01月28日 11時55分00秒 | 教育・子育てあれこれ

公立学校の教員は、児童生徒にとっては等しく「学校の先生」です。

しかし、任用の面でいえば、教員には大別して2種類あります。

一つは「教諭」で、他の一つは「講師」です。

「教諭」とは、大学で教員免許を取得し、自治体の行う教員採用試験に合格して、その自治体の小学校、中学校、高校、特別支援学校に配置された人です。

「講師」は、大学で教員免許を取得しているが、教員採用試験に合格せず、単年度ごとに自治体で任用され、学校に配置された人です。常勤講師と非常勤講師があります。

任用という点では、「教諭」は原則的に定年まで身分が保障されます。つまり、異動はありますが、どこかの学校で一生教員として働くことができます。

一方、「講師」は1年間ごとの任用になりますので、同じ学校に続けて勤務できるかどうかはわかりません。また、その自治体で任用されるかどうかもわかりません。給料は、教諭の7割程度です。

とくに中学校、高校の場合は自分の専門の教科がありますので、教科に「空き」があるかどうかが任用に関係します。

このような差異はあるのですが、「講師」の人でも学級担任をもつことが今では普通になりました。
中学校、高校なら部活動の顧問もして、教諭も講師も同じ仕事をしますので、児童生徒にとっては同じ「先生」です。

現状では、全国的にここ10年間で「講師」の先生が増えています。調査報告によると、10年間で約25%増えています。

それは、少子化の動向や学校を統廃合が進行中で、将来的に必要となる教員数が不透明なため、教育委員会が採用を控え、民間でいう(言葉は適切でないかもしれませんが、)「雇用の調整弁」として、「講師」の先生を増やしているから、という理由が大きいのです。

また、一定数の定年退職数を補うだけの初任者採用数を一気に増やさず、教員採用試験の競争倍率を一定に保ち、採用の「質」を担保するというねらいもあり、「教諭」よりもいわゆる「非正規雇用」に位置づく「講師」の数を増やしているという事情もあるようです。

私も教員採用試験の採用側にかかわった経験があります。

受験者の中には20年間ほど「講師」を続けてきた人もいます。

「講師」は不安定な有期雇用であり、長い年数を勤務してもそのままなので、民間企業と比べて雇用条件は厳しいという見方もできます。

しかし、現場感覚では、学校で教職経験を積み、学級担任を受け持ち、学校の仕事を5年ほど、中学校なら中1から連続して学級担任を務め、中3の進路指導を経験した人なら、立派な「先生」です。

そのような人たちには、教員採用試験を受けなくても「教諭」に転換するとか、正規雇用にするしくみを作ってもいいように、私は考えます。

泣く子は育つ

2021年01月27日 08時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ
最近の幼い子どもについて思うことがあります。

それは電車などの公共交通機関に乗っていて、泣く子が少なくなったということです。

何10年か前なら、電車の中で大きな声で泣いている子はたくさんいました。

車内が駄々をこねたりして「ワーワー」と泣く子で賑やかだったのを思い出します。

いっしょに乗っている親は、叱りつけたり、機嫌をとったり、赤ちゃんならあやしたりしていました。

それでも、泣きやまない子もいました。

周りの乗客も寛容で、「ああ、泣いてるな」という受け取り方でした。

でも、いまはほとんど泣いている子を見ることはありません。


ほとんどの子が「いい子ちゃん」になり、おとなしく座っています。

そんな状況の中で、もし大声で泣き、泣きやまないようなら、親は周りの目を気にします。

ここ数10年で、公共の乗り物では「人に迷惑をかけない」というルールが浸透したようです。

そして、子どもが泣くのをうるさがる習慣ができてきたとも思えます。

だから、もし電車の中で、わが子が泣くようなものなら、親はなんとか泣きやませようとします。

そのため気がせいて、オロオロしながら、抱っこしてあやしたりします。

あれこれしても泣きやまない、自分はダメな親だと周りから責められているような視線を感じる。

なす術なく、やっと車外に出てホッとしたかと思えば、今度はいつまでも泣きやまないわが子に苛立ち、怒りが湧いてくる。

いまの児童虐待は、このようなきっかけで起こるのではないかとも思います。

昭和の時代には、人びとは他者に対してもっと寛容で、許容範囲が広かったように思うのは私だけでしょうか。


さて、教育的にみて、子どもが泣くことは、大切な感情表現です。

たとえば、親と散歩していた子が,けつまずき地面にこけました。

大泣きをします。

これは安心が脅かされたときの子どもの感情表現です。

大泣きをして、スッキリするという成長上の効果があります。

だから、大人は「ああ、痛かったな、痛かったな〜、よし、よし・・・」とあやすのです。

こんな時に、「こけたくらいで、泣くのはやめなさい」などと言えば、子どもはスッキリできないままです。

泣く子は弱いのではありません。泣きたいときに泣ける子がたくましく、強くなるのです。

「泣く子は育つ」。昔の人は核心をつく言葉を残していると,つくづく思います。







男女共同参画社会実現のために

2021年01月26日 08時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ

去年12月に、「第5次男女共同参画基本計画~すべての女性が輝く令和の社会へ~」が、政府によって策定されました。

今後5年間で進める女性参画のための政策をまとめ、数値目標も示しました。

平成15年(2003年)に、2020年までにさまざまな分野で、指導的地位に女性が占める割合が30%程度になるよう期待するという目標は達成できませんでした。

これは2020年代のうちの可能な限り早期に実現を目指すと先送りされました。

さまざまな分野のなかでも、政治分野では国会議員、衆議院議員のうち女性は1割未満です。国際的に見ても大きく遅れています。

日本の有権者の52%が女性であるという現状で、女性の国会議員は少なすぎます。

まずは、政党で候補者の一定割合を女性に割り当てる仕組みづくりが必要になるでしょう

一方、企業の管理職は、少しずつですが女性の割合が増えてきました。

男女が共同で参画する社会を実現するためには、女性の正規雇用を増やし、出産で地位や経験が途切れないようにすることが必要です。

社会の意識改革も必要になります。男性は外で働き、女性は家を守るという固定的な考えはいまだ根強く、とくに地方へ行くほど濃くあらわれ、女性が働きにくい環境を生んでいます。

真に男女が共同参画する社会の実現のためには、学校教育で意識を高めていく必要があります。

学校では、男女共生教育(「男女平等教育」)の実践をいままで以上に推進すべきです。

性別による男女の固定的な役割意識(ジェンダー)を克服する取り組みがさまざまな学校で行われています。

男女別名簿を男女混合名簿にする、ランドセルの色からジェンダーフリーを考える、女性就労のM字カーブについて学習する、デートDVについて学習するなど小学校、中学校、高校等で行われています。

また、性の多様性について学ぶLGBTQの学習も最近ではよく実践されています。

実際、私の教職経験の中でも、最初は名簿を男女別に分け、最初に男子、あとに女子という名簿を使っていました。でもそれもしばらくすると、男女混合の五十音順の名簿を使い、卒業証書の番号もその順に台帳をつくるようになりました。

使う中で、何の不便も不都合も違和感も感じないのが私や他の教職員の実感でした。

今では、当たり前に男女混合名簿を使っています。

男女共同参画は、わが国の長年の家父長制が続く中で、けっこう実現が難しい面があります。

しかし、いま学校では、「男子だから」「女子だから」ということで活動に軽重をつけたり、区別したりはしていません。「男子だから4年生大学進学、女子だから短大進学でいい」というのもはるか昔の進路指導です。

このような環境で育っていく生徒たちは、就労するとなったとき、社会の男女の壁に直面するのです。

私はいつも考えることがあります。
固定的な考えや習慣・慣行は放置しておくと継続するままですが、
制度・法令を変えると、行動が変わる→行動が変わると習慣・慣行が変わり、そのうえ人びとの意識も変わる。

男女共同参画社会も、このプロセスをふんで実現できるのだと思います。時間はかかるでしょうが。

水たまりに映る青空

2021年01月25日 08時24分00秒 | エッセイ
最近の日本では、道路のアスファルト舗装があたり前になり、水たまりはめったに見かけなくなりました。

私の子どもの頃は、道路に凹凸があるのが多く、くぼんだところには雨水がたまり、しばしば水たまりができていました。

道端を母親と歩いていると、大きなダンプが前からやって来て、水たまりを水を跳ね上げ、全身に泥水をかぶってたのを思い出します。
 
今では水たまりを見かけることはほとんどありません。



ところが先日、久しぶりに水たまりを見つけました。

近づいてみると、その水面には空の青空が映っていました。

妙に新鮮な感じがしました。

以前はふつうだったかもしれませんが、今では「ハッ」とする日常の光景です。

青空は天を見上げると見えるもの。でも、ここでは下をみても青空がくっきりと見えるのです。

明鏡止水」は、落ち着いた静かな心境という意味だと思います。

慌ただしい現代社会で、忘れたくはない心もちだと思います。


子どもがうれしいとき

2021年01月24日 08時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 


小学校5・6年生が「保護者に対する子どもの気持ちアンケート」に答えた結果では、
子どもが親から言われてうれしかった言葉かけは・•・


「大切な子だからね」

手伝うと「ありがとう」といってくれる

「おー、すごい」

テストでよくない点でも「がんばったね」と言ってくれる

テストでよくない点でも、「次にがんばればいいんだよ」とはげましてくれる

料理をしたら「おいしい」と言ってくれる

「応援してるよ」と言ってくれる


このように、言われてうれしかった言葉で多かったのが、ほめてくれることと感謝してくれる言葉です。


また、してもらうとうれしかった親のかかわりは、

自分のことを好きでいてくれる

ため息をついていたら、声をかけてくれる

友達とのトラブルを一緒に考えてくれる

疲れていると気遣ってくれる

いつも話を聞いてくれる


以上、月刊「教育相談」2019年10月号(ほんの森出版)より。



中学生も多かれ少なかれ、ほぼ同じ気待ちだと思われます。

ただし、中学生も大きくなり、突然これらの言葉や行動を親がすると、「どうしたの、急に•••」となる場合があるでしょう。

だから、ふだんが大切です。

こうやってみてみると、ごくふつうの親の言動が、親からのかかわりとして、子どもがうれしさを感じることがわかります。

ふつうだからこそ、忘れがちになります。

ふつうのことをしようと、ふだんより心がけて実行してみてはいかがでしょうか。



プライドとは

2021年01月23日 10時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ


人はプライドをもつことが多いです。どの人もその年齢なりのプライドをもちます。

中学生も勉強ができるとか、部活で早く走れるとか、楽器が上手に演奏できるという点でプライドをもちます。

プライドは、自分を尊ぶという意味では大切ですが、往々にしてうぬぼれや傲慢になり、よくない意味で使われることも多いものです。

「プライドが邪魔をした」ということもあります。

自分を尊ぶ、うぬぼれになる、どちらも人間の心を表します。

しかし、太宰治の言うプライドは、ちょっと違った視点で、深い意味のある言葉にして表されています。さすがだと、私は思います。

彼は、『東京百景』のなかで、次のように書いています。

「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか」

これこそが、自分を誇れるというプライドの原点なのだと、私は思います。

誹謗中傷は、自分の傷つきから

2021年01月22日 08時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ
ネット上には、人に対する誹謗中傷が溢れています。

ツイッターやチャットには、個人が他者を攻撃する書き込みをたくさん見かけます。

先日、阪急電車で高齢の男性が絡む人身事故が宝塚線岡町駅でありました。

その影響で、宝塚線は一時運転を見合わせたり、折り返し運転をするなど、帰宅の通勤者、学生に影響が出ました。

宝塚線は復旧後も終日電車の遅れが出ました。

そのことに関するSNS上の書き込みは、「言いたい放題」が目立ちました。

ホームから線路に誤って落下して電車に接触したのか、自ら飛び降りたのか、事実がわからないのですが、「迷惑なことだ」という感想が多かったです。

すると、事故現場に居合わせた人からは、「靴が片方飛んで、線路に転がっていた」という「報告」がありました。

とにかく、無責任な書き込みが多いのです。迷惑であるのは確かかもしれませんが、事故がどういういきさつかわからないところでの誹謗中傷が多いのです。

これについて、私が思うのは次のことです。

人はいつもポジティブな感情だけをもっているのではありません。ときには、ネガティブな感情ももちます。

多くの人は、そのネガティブな感情を本来向けなければならない人や対象に向けずに、より安易な人や対象に向けやすいということです。

電車事故で亡くなった人と自分の間には、利害関係がないので、好きなことを言います。

ネット上での突然の怒りや一見論理的とは言えない中傷や批判は、このようにして起こるのではないかと思うのです。

その書き込みをする側も、別のときに自分が傷ついた思いをもち、癒されない心理でいます。

が、それはふだんはフタをして思わないにしています。

その人は、電車事故と自分が関係なくても,そんな場面に遭遇すると、心のフタが開きます。

自分の癒えていない傷が呼び起こされ、他者との境界線があいまいになり、論理性や分別を飛び越え、攻撃的になるのでないか。

多くのネット上の誹謗中傷の書き込みはこのようにして生まれるのでないかと、わたしは考えます。



学校教育でも同じことが言えます。

いじめは、まさしくいじめる側の子が、平素の学校生活で不満をもっていたり、心を傷つけられた経験をもっていることが多いものです。

それが癒されないままでいると、そのネガティブな感情は、あるきっかけで別の子を対象にして向けられ、いじめに走るのです。

じっさい、学校生活や友だち関係を楽しみ、満足している子は、他の子をいじめたりはしないものです。



私たちはストレスをかかえやすい現代社会で生きている以上、傷つくことは多かれ少なかれあります。

まず、自分が癒やされること。これが他者に攻撃的にならずにすむ秘訣であると言えるでしょう。







いつかは春になる

2021年01月21日 09時09分00秒 | エッセイ


なかなか出口が見えない新型コロナウイルス感染症です。

もう、うんざり。

この思いが、緊急事態宣言が出ても、人びとに不要不急の外出を控える気にさせなくするのかもしれません。

たとえば、神戸市三宮や元町などのたくさんのスポットでの人出は、緊急事態宣言(1月13日)が出された翌日には、前の週の7日より増えました。

ワクチンが使えるようになるのも、まだ不透明です。

自分が原因で起こったトラブルなら、気を取り直して前を向くこともできるでしょう。

自分の力ではどうすることもできないときは、心が重くなります。

さらに、世界中に広がってしまい、逃げる場所もありません。

こんなとき、人は前向きな気持ちになるのは、かなり難しいのです。

まして、今の季節は冬です。それもかなり寒さが厳しい今年の冬です。

周りの景色も冬枯れで、殺風景です。風が冷たい上に、歩いても、歩いても、どこにもたどり着けないような気分になります。寒さが身に染みてきます。

そんなとき、わたしは中学校の卒業式前の、明るい光を想像します。だんだんまわりが暖かくなってきて、校庭の木々も芽吹く瞬間を「いまか、いまか」と待ち望みます。

どんな長い冬にも、必ず終わりが来ます。季節は必ず巡るのです。殺風景な景色は必ず変わり、緑色に変わります。

それを信じて、いまは自分にできる限りの、目の前のことを一つずつ片づけるしかないのでしょう。

心は前向き

2021年01月20日 16時43分00秒 | 教育・子育てあれこれ
最近の天気予報は精度が上がったと感じます。


「明日は午後から雨が降るでしょう」といえば、その通りになります。

以前は、天気予報が外れることはよくありましたが、いまはほぼ正確な予報を出してくれます。

若い人の中には、「天気予報士になりたい」という人もいます。

この資格をとるのはなかなか難しく、何度も受けてやっと合格する人が多いようです。

また、スマホの普及で、天気予報をアプリで見ている人も増えました。

予報を知りたい地域に合わせて、天気情報を知ることができます。

ハワイでは、「No rain,no rainbow」という言葉があります。

雨の日は浮かない気持ちになるが、雨が降らなければ虹は出ないのです。

苦しみやつらさを知らないと、ほんとうの楽しさや喜びはやってこない。このような意味に解します。


ところで、人びとは、わたしもそうですが、「明日の天気はどうなるだろう」と気になります。

明日の天気予報を気にする人は、悲しいことやつらいこと、悩みなどがあっても、大丈夫だとわたしは思います。

なぜなら、明日のことを気にしている時点で、その人の気持ちは明日に向いているからです。
心は、前に向いているからです。

リーダーの役割は連帯感を生み出すこと

2021年01月20日 08時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ

前回の緊急事態宣言のときは、増加する感染者数の情報などに接し、多くの人びとは「自分も感染するかも」という恐れから外出を控えていました。

でも、その恐れは去年の夏以降弱まっています。

感染しても重症化しにくいと知った若い人をはじめとして、既往症を持つ人と高齢者を除く多くの人から、「得体の知れない」ウイルスへの恐れが薄れてきたのかもしれません。

この現状では、私は人びとに意識の変化をもたらす対策が、いま必要だと思います。

意識の変化とは、感染の問題を自分を軸にとらえるのでなく、周囲に感染させないようにしようとする「利他の態度」をもつことだと思います。


そもそも今の時代は、一般的に、ものごとへの関心が自分に向きやすい傾向があります。

社会学では「プライバタイゼーション」(=privatization)と呼ばれています。

私のことをわかってほしい。

私はこんなに傷ついているの。

私のたいへんさを知ってほしい。

・・・・・・・・・・・・・・・

心が傷つきやすい現代には、他者よりも「わたしが、わたしが、わたしの、わたしの」というように、自分に関心が向きやすいのです。

だから、新型コロナウイルスに関して、前回の緊急事態宣言のときは、「私が」感染したらどうしようという恐れが生まれ、外出を控える人が多かったのでしょう。

そこで、今回の緊急事態宣言では、周りの人に関心が向き、その人たちに感染させないようにしようという意識変化で外出するという行動を食い止めるのです。

意識を変化させ、「利他の態度」を呼び起こすのは、それほど簡単ではありません。

こんな時こそ、国のリーダーが、国民の心に響くような、人間を大切に思う熱い呼びかけをするべきです。

これは、私が校長で生徒たちにそのような語りかけをしてきたから、よけいにその必要性を思うのかもしれません。

でも、ドイツのメルケル首相は、人間味のある温かい演説をして、ドイツ国民の共感を呼び起こしました。

リーダーとは、そのような役割です。

わが国でも、「厳しい状況だけれども、今こそお互いに守りあいましょう。日本とはそれを実現する国です」などと訴えるメッセージを政府が出すべきです。

それを聴いた人は、「そうだ、私たちはこの国、日本で生きているのだ。みんなでがんばろう」という連帯感をもちます。

連帯を呼び起こすメッセージは、「利他の態度」がキーになります。



しなやかな強さ

2021年01月19日 08時22分00秒 | 教育・子育てあれこれ


校長在任中の2016年に、全国中学校校長会研究大会が宮城県であり、私も出席しました。

その研究大会の最終日に、俳優・歌手の中村雅俊さんの講演を聞く機会がありました。

彼は宮城県女川町の生まれです。

自分が俳優になった頃の話をされていました。

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大学生のとき、英語劇(ESS部、じつは私も大学のころESSに入っていました)を通じて知り合った奈良橋陽子さん(キャスティングディレクター)が言った言葉が、生涯忘れられない言葉になりました。

You have something.」(あなたは何かをもっている)

当時、彼にはsomethingの中身が何であるかはわからなかったそうです。でも、その言葉が支えになり、文学座の研究生の試験を受け、俳優の道を歩き出したそうです。

デビュー曲が「ふれあい」(1974年)で大ヒットしました。のちに映画にもなりました。

その歌詞に「人はみな一人では生きていけないものだから」という一節があります。

その後、故郷の女川町は2011年の東北大地震の津波で壊滅的な被害を受けました。

故郷の復興を願って活動する中村雅俊さんは、この歌詞の一節を胸に秘めているそうです。

講演では、次の話もされていました。

「この俳優という仕事では、自分一人で勝手なことは何もできません。たとえば、「大河ドラマの主役をやるぞ!」と一人叫んでみたところで、依頼がないとできないのです。

私は幸い、役者だけでなく歌手もできています。自分がいま生きている道のりをたどれば、そこに文学座がありました。

そこで杉村春子さんが言っていました。女優は文学座に入ると、『女の一生』をやることになりますが、杉村さんもやりました。

その劇では、どん底に落ちる場面があります。そこでの杉村さんのセリフがすごかった。

誰かが選んで歩き出した道ではない。自分が選んで歩き出した道なので、間違いと知ったら間違いでないようにしなければ」。

人生は、いつも選択の連続ではないでしょうか。
そのとき、そのときにpriority(優先順位)があるので選択するのです。
AかBのどちらかを選ぶ。Aを選んだ人は、途中で障害、挫折にあいます。そのとき、Bの方がよかったと思います。

しかし、Aが間違いだったとしても、間違いでない道にしなければならないのです。こういうことの繰り返しで生きていけばいいのでないかと、私も思うのです。
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こんな内容の講演を聴かせてもらったのを、いま思い出します。

わたしは、人が失敗や挫折に出会っても、屈しない精神力を思います。

これが今でいうレジリエンス、つまりしなやかな強さなのだと思います。

凶器となる言葉

2021年01月18日 08時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ

私は、中学校の学級担任をしていて、生徒に言ったことを思い出すことがあります。
 
楽しかった、よい思い出の場合もありますが、「なぜ、あんな言い方をしたのだろう」と悔いる思い出もあります。
 
「〇〇高校を受けたい」と言った生徒に、教職経験の浅かったわたしが「ぜったいに無理」と言ったことは、後悔の極みです。
 
今思い出しても、その生徒に申し訳なく、恥ずかしく思います。
 
進路指導で、受験校の合格可能性が低くても、「ぜったいに」という言葉はありません。
 
きっと、私はその生徒を言葉で傷つけたことでしょう。
 
申し訳なかったと今思い出しては後悔しています。  
 
多くの人は「傷つけられた」ことはしっかりと覚えていますが、「傷つけた」ことは無自覚な場合が多いものです。
 
私が「傷つけた」と覚えているぐらいなので、きっと相手は、たいそう深く傷ついたのだと思うのです。 
 
中学校の問題行動では、暴力事件が近年大きく減少しています。したがって、今という時代では、直接的な暴力よりも言葉が最大の凶器になるという認識が必要です。 
 
ある政治家が、年前に支持政党がらみで「そんな人は排除します」と言いました。
 
この「排除」という言葉は強いインパクトを持つ言葉で、世間はそれまでその政治家を支持する論調が基調でしたが、その一言で急に風向きが変わってしまいました。
 
ちょっと言い過ぎだったという感は否めません。 
 
私が各中学校を回って若い教員の授業を見ていると、生徒への言葉づかいで気になることがときどきあります。 
 
生徒と教師は対等な人間関係で教育が成立するというのが私の持論ですが、教師は指導する側であり、生徒は指導される側であることから、生徒に対して「上から目線」で発言する教員がいます。
 
 職員室を訪ねてくる生徒に、「〇〇先生はいますか? いないなら部室のカギを貸してもらえませんか?」と言ってきた生徒に「その前に何か言うことがあるやろ? お前は誰や?」という教師がときどきいます。 
 
30年前なら、通用したかもしれません。しかし、今ではその言葉はダメです。
 
 たしかに、生徒には「〇年〇組の〇〇です。部室のカギを貸してほしいのですが」と言うように習慣づける指導をしています。
 
しかし、そうならない場合もあるのです。「部室のカギはとってきて貸すけれど、〇年〇組の誰さんだったかな。名前も言ってね」と普通に言えばいいのです。 
 
相手を傷つける言葉を使う人は、相手だけでなく、ほんとうは自分自身をも傷つけているのです。 
 
テレビの番組で、ゲストがはっきりと自分の意見や考えを言っていますが、相手を傷つけるようなことはまず言いません。
 
また、バラエティ番組で芸人や俳優をからかうような発言をしますが、その場合も、言われた人をイヤな気分にさせるどころか、楽しくさせ、同時に周りも楽しくさせる難度の高いテクニックを使っています。
 
ところが、評論家という人がコメントをすると、素で自分の考えを言うものだから、まわりの人を傷つけるような発言をしてしまったりします。 
 
言葉は言い方次第です。相手が聞いた瞬間、うちのめされて、立ち上がることもできなくなることもあります。言葉は、ときには人を殺める凶器になります。

「あのとき、あんな言い方でなく、こんなふうに言えばよかった」という後悔が起こらないように言葉に気をつかいたいと思います。