箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

人の口にものをいれる産業の人にリスペクトを

2025年01月31日 07時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ


米の価格が値上がり、野菜価格の高騰が私たちの生活を苦しめる昨今の状況です。

わが家では、わたしの子どもの頃から若い頃まで、田んぼに水を入れ、稲作をして米を作っていました。

畑では野菜の栽培もしていました。

今は、稲作はやめていますが、畑の野菜づくりはしています。

家の周囲には、たくさんの自然が残っています。

そういう自然豊かな環境で育ち、現在にいたっていますので、仕事で都会へ出かけても、自宅に戻り自然の中に身を置くと心が落ち着き、安定します。

だからこそ余計に思うのですが、私たちは農業・畜産・漁業など1次産業で働く人へもっと敬意を払うべきです。


人は食べることで生き、人とつながることで幸せを感じます。


敬意をもつべき対象は、政界に身を置く政治家やオフィスで働くサラリーマンではなく、街中で作品を創る芸術家よりも、まず人の口に入れるものを作っている人たちではないでしょうか。


今の日本社会はこの国をボトムで支えてきた人たちへの視線があまりにも足りなさすぎると感じるのです。


もっている金銭の多い少ないによって、人の営みが備えもつ価値を測ることはできないのではないでしょうか。


最近の日本では、子どもがいちばんの消費者になり、子どもが大きくなっていくうえでお金がかかります。


教育費やスマホに費やすお金よりも、子どもが笑顔になればいいのです。


本当の意味で価値があることは何なのか。私たちが凝り固まったしがらみから脱することができるとき、私たちの価値観や文化は変わっていくのではないでしょうか。


ともに心配してくれる人がいる

2025年01月30日 07時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ


いま、受験シーズンたけなわです。

多くの場合、子どもは大人より経験が少なく、とくに受験が初めての場合、受けるプレッシャーや抑圧は、たいへん大きなものがあります。

受験生専門外来をもつクリニックの医師の話によれば、動揺しやすい受験生に親が言ってはいけない言葉があるそうです。


一つ目の禁句は、「受験は大丈夫?」です。


親が子どもの入試が不安で、何度も子どもに尋ねてしまうのは、じつは自分が安心したいと思うことがよくあるからです。


ただ、そう尋ねられた子どもは、苦手教科・分野などを「大丈夫ではない」ことを意識してしまい、不安感を高めてしまうことになりやすいのです。


親は子どもの不安を包み込んで安心感を与えるべきなのに、かえって不安にさせてしまうのです。


二つ目は「もっとがんばれ」です。がんばりが足りない子どもに対してハッパをかけはげますことは必要なこともありますが、何をがんばったらいいかがあいまいな励ましは役にたちません。


そして三つ目の、いちばん発してはいけない言葉は「必ず受かる!」です。


子どもの不安を取り除こうとする発言ですが、言われた側には往々にして大きなプレッシャーとなります。


まわりが受かって当たり前だと思っていることを意識したら、不合格になる恐怖が増すのです。


さらに、親が「わが子のため」とよかれとかんちがいして、このような禁句こ言葉をかけ続けると、ある日突然に、子どもが「キレ」て反抗することにもなりかねません。


というのが、来訪者に応対したクリニックの医師の見解です。



またわたしは加えて思うのですが、「お父さんの頃は」とか「お母さんが受験したときは」という経験談を語るのも、意味がないことが多いです。


おそらく30年前ごろの受験の経験談になるでしょうが、今と昔では時代が違います。受験の制度が変わっていたりするのに、昔の話を聞かされても、「ああ、そうですか」と感じてしまいます。


まして、親がこうやって合格を勝ち取ったという自慢話や「武勇伝」を長々と語りだすならば、子どもの心はすっかり離れてしまいます。



受験の不安で苦しむ子どもに、親は「何か心配なことはない?」と尋ねて、子どもの悩みの聞き役になることが大切です。


不安やイライラを受け止め、ともに心を痛めるだけでも子どもは救われます。



こちらから発する言葉はほとんど必要ないのです。


いっしょに心配してくれるおとながいるということが、子どもの安心感を高めます。





質問する記者に望むこと

2025年01月29日 06時28分00秒 | 教育・子育てあれこれ

3月27日の長時間にわたるフジテレビの記者会見を見ていて感じたことがありました。

会見の内容については、ここでは触れません。

とりあげたいのは、質問する側の記者の会見への向き合い方・態度についてです。

手を挙げてあてられた人だけが発言できるというルールなのに、勝手に話す記者。

司会者が制止しているのに、意図的に話すのをやめない記者。

感情的になり、ヤジと怒号を放つ記者。

自分以外に質問したくて挙手している人がたくさんいるのに、お構いなく自分の考え・主張を「スピーチ」して時間を費やし.なかなか質問せず、何を尋ねたいのか不明な人。

「あなたの考えを聞く場ではないですよ」と、わたしは思わずつぶやいていました。



そもそも記者会見の質疑応答の基本は、質問する側が自分の考え・意見を交えず、質問だけに徹することです。

そして、短い質問を数回重ねて、回答を引き出しロジックを明確にさせ、そこから無理なく判断・結論が自然に会場で共有される。

それが質疑応答の本質です。

記者が自分の意見・考えを延々と言う場ではないのです。

なかなか質問を言わずに、司会者から注意されても、「質問をするためにこの(長い)話をしています」と、話し続ける記者もいました。

そういうことが許されると、記者の主観が入ったストーリーが会見の内容になってしまい、事実から客観的に判断することが難しくなってしまうこともあります。

事実を伝える役割が記者の使命であるはずです。

それがこのありさまでは、日本のメディア担当者のお粗末さと寒々しさを覚えました。



活字メディアも大切

2025年01月28日 06時32分00秒 | 教育・子育てあれこれ

情報を伝えるメディアとして、新聞や雑誌といった旧来の活字メディアは、今や若い人はあまり読みません。


ネット媒体やSNSに対して劣勢になっているのが現在のメディア状況です。


書店は勢いをなくし、今までよく読まれてきた雑誌もピンチです。


ネット上でも、とにかく長い文章をじっと読むよりも、その記事についているコメントを先に読んでどんな内容かを判断するようです。


TikTok をはじめとする映像は基本的にエモーショナルです。


雰囲気や表情を伝えるのに長けています。


一方、文字で伝わるのはロジックだと言えます。


ロジックの積み重ねで構成される詳しい報道は社会に必要だと思うのですが、どうも昨今、帰納法や演繹法のような論理は軽視されているように感じます。


しかし、若い人たちといっても大学生の場合は、論理的に書かれた文章を読むことは、学習の中で求められます。


卒業論文も書かなければなりません。その場合、必ずロジックは求められます。


活字メディアにも親しむ必要があります。


いま光を放つ「無知の知」

2025年01月27日 07時55分00秒 | 教育・子育てあれこれ


今の時代、ディスカッション・対話を通してまったく違う考えに触れることが求められます。


そして自分外の視点を持って自分の考え意見が絶対的ではなく、相対化する訓練が重要です。


いまの社会では、人の人の「分断」が問題になっています。


SNS上のコメントでは、相手を言い負かした「論破」が称賛される時代に、どのように対話が成立させるかが必要になります。


その成立のためには、自分の主張をいったん括弧でくくり、自分はわかっていないと自覚する「無知の知」が重要となります。


そのように今、現場をベースにして、社会のさまざまな問題を考えるディスカッションが必要です。


自分の文化や思考にクエスチョンマークをつけ、何を変えるべきか、何が問題かを考えることが必要です。


そのためには、コミュニケーションでは相手の言うことを「聴く」のがポイントになります。


自分の考えを相対化するために、「聴く」からスタートするのです。


ボトムアップの希望

2025年01月26日 06時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ

スマホでSNSを利用し続けると、自分と似た考えに繰り返し触れる「エコーチェンバー」(Echo chamber)に陥ることに危惧します。


SNSを通して情報を得てばかりでは、面と向かって人とやり取りするときのような想像力が働かなくなるのです。


そして自分で考えなくなります。


行き着くところは、現在の分断が進む世界の中で、気づかない間に戦争に加担することになっていたということにもなりかねません。


第二次世界大戦中のナチスドイツのファシズムに人びとがなびいていったのは、自らの頭で考えるということをしなくなったからです。


とはいえ、希望をなくす必要はありません。


たとえばイギリスでは、コロナ禍のロックダウンのとき、各地の市民がボランティア組織をつくり、高齢者や障害者のいる家庭に食料を届けたり、定期的に電話で話し相手になったりしてきました。




日本では、「政治が何もしてくれないから、どうせ変わらない」という人が多いです。


しかし、それは自分が変わらないからでもあるのです。


人びとが政治をあてにせず、政府の必要性すら疑問視するようになったら、政治家は民衆のための政治を始めるのかもしれません。


こんな時代だからこそ、自分たちの足で立つことも求められます。


社会を変えるのは、いつもボトムアップの力なのです。







メディアリテラシー教育を学校で

2025年01月25日 06時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ

ソーシャルメディアを運営するプラットフォーム会社は、利用者の閲覧や検索の履歴に応じて関心のありそうな情報を選別して配信します。


その結果、利用者が自分好みの情報に囲まれる「フィルターバブル」の状態が生まれます。


そうなると、人は別の意見や視点に触れる機会が乏しくなり、ものの見方が偏りやすくなり、極論すると人と人の分断を招くリスクをはらんでいます。


また、ネット上にはきわめて偏った差別的な情報やニセ情報が多くあふれています。



子どもたちには、情報の正確さを吟味して、ものごとを複眼的な視点で見ることがますます重要になってくると思います。

そこで、学校教育のなかでのメディアリテシー教育が求められています


メディアリテラシーは、メディアがもたらす情報を理解し、活用する能力のことです


いまや子どもが接する情報をおとながコントロールするのは不可能になっています。

子どもたち自身が自分で判断する力を育てる必要があるのです。





災害後に感じる罪悪感

2025年01月24日 07時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ
1月17日は阪神大震災から30年で、テレビでも特番が組まれていたので見ました。


自分だけがが生き残った申し訳なさをとりあげていました。


災害や事故で生き残った人が、親しい友人や家族を亡くして、「自分だけが生き残った」という罪悪感や負い目を感じることをSurvivor's Guilt(「サバイバーズ・ギルト」)といいます。


災害はただでさえも心に受ける傷は大きいものです。


死別の喪失感から「何かできたのでは」と自らを責めるのも似た心の働きなのかもしれない。


心の傷を癒やすには心ゆくまで悲しむという、長い時間を要します。


そして、それを乗り越えるということは本来、人はできないのかもしれません。


その心の傷を引き受けて、引きずりながらも、それでも生きようとしたとき、その人にとっての未来が開けてくるのでしょう。



好きだから好き 理由はいらない

2025年01月23日 07時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ




世の中で何か事件が起これば、コメンテーター、専門家、評論家が批評、批判、賞賛、解説などのコメントをしてくれます。



この人のバッティングはこの点がすばらしい。


凶悪犯罪が起こると、警備態勢のここに欠点があった。こうするべきだ。


この絵画はなぜよいのか。誰の影響を受け、どんな工夫をしてこの画風を打ち出しているか。


それらは根拠や論理・理屈で裏打ちされています。




たしかに世間ではたくさんの根拠・論理・理屈が、あらゆる疑問を封じ込めてくれます。


でも他人はどうあれ、自分にとっては素晴らしい絵なのです。


自分だけが気に入った映画。


推しにお金をつぎ込む。


それらには理由づけはいりません。


素晴らしいから素晴らしい。気に入ったから気に入っている。


好きだから好き。


そんな心中の不思議を正すのは、理屈抜きの自分の感性、感情だけではないでしょうか。


私はやっぱりこれが好き。これでいいのでしょう。


ありのままの自分の感覚・感性を大事にしたいのです。


相談相手としての保健室の先生

2025年01月22日 10時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ
2024年12月16日のブログで、保健室の先生のことを書きました。

「それら以外に、保健室を訪ねてくる児童生徒からの相談業務も、学校では大きな意味をもっています。
教室に入りにくい子から話を聞いたり、拒食症の子、学校生活の相談など、学級担任に話さないことでも、養護教諭には話せるという子もいます。」

今日のブログでは、保健室の先生(養護教諭)は、生徒からどのような相談を受けているのかを紹介します。

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中学時代にある朝「名字が変わるから」と言われました。私は「ブチギレ」ながら登校したんですが、校内では明るい私で頑張らなきゃって。


「こんな悩みを分かってくれる同世代はいないだろう」と思ていたんですが、本心とのギャップに耐えきれず遅刻魔になり、保健室で過ごす時間が増えました。


保健室の先生は何もジャッジせず、ゆっくり待ってくれた。

ある時、「話したくないことは話さなくてもいいよ。でも、もし話して楽になるなら、いくらでも話していいよ」と接してくれたんです。


その瞬間、ワーっと泣いてしまって。この人になら言っていいんだ、と思えたんです。しんどさのサインを見逃さず、受け入れてくれた。何でも悩みを話す間柄にはならなかったけれど、その先生がいると思うだけで、たくましくなれた気がします。


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2025年1月7日の『毎日新聞』の「学校と私」に載っていた投書(抜粋)です。

人間関係にもよりますが、学級担任の先生には話せない生徒でも、保健室の先生になら話すことができる場合もあります。

生徒の相談相手になることができ、生徒の生活を支えることができる。

それが、養護教諭の役割の大きな側面です。




いい気分にさせる人になりたい

2025年01月21日 06時31分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新しい年を迎えましたが、今年1年を過ごすのに不安を感じているのはわたしだけでしょうか。

海外のできごとが直接私たちの日常に影響する今の時代に、危機感を抱いている人は少なくありません。

海外の情勢次第で、留学を予定している大学生に影響が出たり、活動ができなくなる人が生まれます。

また国内の治安がどうなるかも心配であり、気候変動で今年の夏はまだ暑くなるのでないか。

安定した気候や安心して暮らせる経済状況があれば心穏やかに過ごせますが、最近は心がすり減り傷つく事件が多くて気分が落ち込みがちになりがちです。


そして、イライラしたりうっぷんをため込んだ人が、そのうっぷんを周りに伝え広げます。


SNSでは、他者に対して容赦ない攻撃が行われます。


人は他者の攻撃性に触れると自分も攻撃的になることもあります。


そのように、他人の怒りが自分に無意識のうちに影響するのです。


お互いに非難しあったり、他者を否定したりする場面を、去年はたくさん見聞きしました。


ただ、そんな状況でも、ひとつ救いになるは、人は悪意だけでなく親切で温かい態度にも影響されるということです。


悪意だけが伝わるわけではなく、他者への共感も伝え広がるのです。


イヤな態度を見たり、悪意ある態度をとられた後には、意識的に共感を寄せれる人と話したり、気分を良くする本を読むなどが



そこからさらにもう一歩進み、自分自身がいい気分を伝える人になりたいと思います。


いつもというと無理かもしれないませんが、時々でもそんなふうになれたら、人にいい気分や安らぎを運ぶことができるのではないでしょうか。


人はうそがない自然な笑顔に接すると、ホッとした気持ちになるのです。



新教育課程での共通テスト

2025年01月20日 06時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ

大学入学共通テストが18日、19日と二日にわたり実施されました。


現行の新学習指導要領高校編は2022年度から実施されています。


この学習指導要領は、「主体的・対話的で深い学びの学習」により、生徒の思考力、判断力、表現力を高めることをめざしています。


資料を読みとる力や考察する力が求められ、高校での授業はそれらの活動を日頃から実践するように変わってきたのです。



そして、今の高校3年生は1年からずっと現行の学習指導要領に基づく新教育課程で学習してきた生徒たちです。


その意味で、今回の共通テストは、新教育課程の特徴が反映され、思考力を確かめたり、グラフやレポートを分析する力を測ったりする問題が多かったのです。


18日の社会(歴史総合)のテストをとりあげてみましょう。


「主体的な学び」を意識し、生徒間の対話や探究活動を題材としたが目立ちました。


保護者の中には、今も「社会は暗記科目だから」という人がいますが、とんでもありません。


確かに覚えた知識が問題を解くのに必要になるという側面はあります。


しかし、その知識をもとに、資料を考察したり、資料を読みとり、探究する実力がなければ、とうてい答えられない問題で今回の共通テストは埋められています。


ということですので、高校での日常の授業が一昔前の知識伝達型(教師が知識を教え、生徒が覚える)でなく、思考力等をはたらかせ、考察したり探究する活動のある授業を実践してきたかが問われていると教員は受けとめなければなりません。






これが今回の問題の一部ですが、知識を覚えていれば、答えられるような問題ではないことが理解できます。



柳の木になりたい

2025年01月19日 07時33分00秒 | 教育・子育てあれこれ

仕事にしても、私生活にしても、生きていくうえで、ブレない自分の軸をもつことは大切です。

ただし、自分の軸が「ねばならない」「でなければならない」という思いが強すぎると硬直化してガチガチになり、いつかポキンと折れてしまいます。


そうではなく、人の話や意見に耳を傾けるゆとりが大切です。


柳の枝のようにゆらゆら揺れながらも、軸がしっかりしている。


しなやかに生きるとはそのようなことだと思います。


そんなふうにいられれば、どんな困難に遭遇しても、自分を見失うことなく一歩ずつ前に進めるのではないでしょうか。


人は自然とつながる

2025年01月18日 07時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ
今年は、大阪で万博が開催されます。

先端の科学を見たり、体験したりできそうです。

1970年の大阪万博も科学の進歩は一つの大きなテーマでした。

そこで、思うのですが、どれほど科学や技術が進歩しても、生身の人間は自然と連なっています。

ですから、生活のほんの一部でも自然を取り込んでいくのが大切だと思います。

1月ごろこ冬の木立は広葉・落葉樹の場合、まったくといっていいほど、葉をつけていません。

ほんとうに幹と枝だけになります。

冬の木立は寒風が吹き荒むなかで、じっとがまんして立っています。

先日、その背景に冬の抜けるような青空がそびえていて、木と空のコントラストに感激しました。


空が青いというだけでなにか胸がときめくというワクワク感を覚えました。


日常にある、自然と連なった何気ない小さなときめきを感じる生活はいいものです。





避難所になった中学校 阪神大震災から30年

2025年01月17日 09時52分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 30年前の今日、1995年1月17日午前5時46分ごろ、阪神大震災が起きました。
 わたしは、そのときも大阪府北部に住んでいましたが、猛烈な揺れは今でもハッキリと覚えています。
 最初に下からドーンと突き上げがあり、そのあとはガタガタガタガタと激しい横揺れがきました。家が潰れると思いました。
 あれほど激しい揺れを体感したのは生まれて初めてあり、それ以下も今までにありません。
 そのあと出勤したのですが、道には落石というか大きな岩が落ちていました。信号は消えていました。
 そのあと、神戸方面がとんでもないことになっていることをテレビのニュースで知りました。
 今日は30年にちなみ、神戸市須磨区の神戸市立鷹取中学校の震災当時校長だった人から聞いた講演をお伝えします。少し長いですが、ご一読ください。

 私は大地震のとき、神戸市の鷹取中学校の校長だった。1995117日午前546分、神戸市で大地震が起きた。わずか20秒の揺れで、神戸の町がなくなり、人の生き方が変えられた。神戸市の学校の約65%は避難所になり、残り82校は倒壊して避難所にもならなかった。

 学校に駆けつけた私は市教委へ何度も電話をしようとした。①鷹取中学校が避難所になったこと②救済の窓口はどこか③指示系統を確認したい。しかし電話は通じなかった。そのため、すべて私が指揮をとることになった。

 鷹取中学校には統計上は2000人の避難者だったが、実際はいちばん多いときで4689名の避難者がいた。117日から831日まで避難所となった。その間、教師と生徒で避難所を運営した。開設当初は「先生、何をしたらいいんですか」などと聞く余裕などいっさいなかった。すべてがその場、その時期での判断だった。

 鷹取中学校は須磨区にあるが須磨区のいちばん東端であるので、避難者は長田区から来た人がほとんどだった。須磨区の住民のほとんどは西へ逃げたのでした。

 震災当日は午前730分、教師6名が学校に到着、4カ所の校門周辺に約300人の避難者が集まっていた。北門を開き、避難者を校内に誘導した。停電のためシャッターは開かず、2名の教師がこじ開け、けが人・老人を優先して校舎内に誘導した。学校の被災状況を確認後、校長室・事務室・職員室・保健室以外のすべての施設を提供した。

 水がなかった。中2のある男子生徒が突然倉庫を壊し始めた。受水槽を壊し、避難者に水を配ろうとしたのだった。これもシャッターをこじ開けた教職員の姿を見ていた生徒が生徒が自主的に水をくみ上げ、配ってくれたのだった。

 鷹取中学校の避難所は日本人をはじめ、ケミカルシューズの工場に勤務していたベトナム人130人、韓国朝鮮人300人、ペルー人、ギリシャ人からなる多民族の避難所でもあった。

 ある日、倒壊した家屋の中に生存している夫婦がいると聞きつけ、教職員で救助に向かった。老夫婦が鉄瓶に入った一杯の水を分け合って飲みながら生存していた。このような人たちを大切にしたい。被災した人たちに思いを寄せ、かかわりきる。これが避難者と学校の関係をよくして、学校再開につなげることができた。 

 社会福祉協議会から支援隊を出してくれる申し出があった。鷹取中学校は1週間以上いてくれることができる支援隊のみをコーディネートすることになった。そのとき私は物資の奪い合いで暴動が起きそうな気配を感じていた。そこで、今避難している人が将来、同窓会ができるような避難所にしようと提案した。(実際、避難所解消後も同窓会を毎年できた)

 次に避難所の中で外国人差別が見えてきた。「外国人を放り出せ」という発言や無視をするという言動があらわれてきた。差別いじめのない学校づくりを人権教育として進めてきたし、行政が人権啓発を進めてきた。しかし非常時になると差別があらわれる。関東大震災のときの朝鮮人虐殺を繰り返してはならない。N教師が敢然として差別に対抗した。「同じ地震である関東大震災のときに起こった朝鮮人虐殺。あなたたちはそれと同じことをしようとしているのですよ」と訴えた。その後、避難所が助け合う場になった。

  2のある男子生徒は、よく授業をサボり、学校を飛び出す子だった。子どもたちは班をつくり、水を担当する班、トイレを担当する班(縦割り)などに分かれた。彼は班長になっていた。物資を運んだりするとき、「がんばってください」と言う声かけをはじめた。やがて声かけが避難所に広がるようになった。

 赤ちゃんを抱いた母親は、元気な声をかけてもらって心が安らぎます。ある日、校長室におじいちゃんが子どもを連れてやってきた。「この子はわしの知らん子やねん。でもおじいちゃん寒ないか。背中さすろか」というてくれるんですわ。・・・・・

 子どもがみずから学習していった。生きていくためのかかわりを通して、差別が解消していった。一つのものを分けて食べる、一つのものをともにつくるという行動が差別をなくしていった。

 最初に日赤から500枚の毛布と500人前の食糧が届いた。しかし鷹取中学校の避難所は震災3日後には3000人を超えていた。その後、折り詰め弁当や缶詰も届いた。しかし一人1個もあたらない。弁当が届いたとはなかなか言えなかった。奪い合いが起こるかもしれない。

 子どもたちは弁当はすべて自分たちが受け取り、避難者に分けると言ってきた。その後弁当が届くと、1個の弁当を何人で分けるかを決め、「~人で分けてください」と1個ずつ弁当を手渡していった。

 1日に1回の食べ物。中1の女子生徒はおばあさんに「今日の弁当は3人で分けてください」といって渡そうとした。あばあさんは「お嬢ちゃん、わたしは昨日ももらっていない。一昨日ももらっていないんや」と言った。でもその生徒は泣きながら「今日の弁当は3人で分けないと足りなくなるのです。この人とこの人との3人で分けてください」と言って分けていた。

 子どもに「食べもんをとってこい!」とすごむ人もいた。しかし、子どもは泣きながらも弁当を渡さなかった。子どもたちは弁当を守り抜いたのだった。ある日、弁当が悪くなっているときがあった。私はすべて捨てるように指示をした。中学生はわかってくれたが、小学生が悲しそうな顔をした。そこである中学生の男子が怒り出した。「何か腐っているのか調べたんか」 と。調べてみるとスパゲッティだけが腐っていることがわかった。そこで、スパゲッティだけを捨てて、弁当をすべて配ることになった。その後、その男子生徒は、のちに隣保館の大鍋を借りてきた。そして炊き出しが始まった。

 このようにして、19日後には鷹取中学校の18クラスすべてが授業再開にこぎ着けることができた。すべての年齢の子が 、それぞれの思いで、自分のできることをやり、避難者にかかわっていった。子どもは等しく同じ力をもっているのだと実感した。

 生徒の安否を確認したかった。しかし避難者がいるので探しに行けなかった。その一方で、必死になって安否確認をしてくれていた3人の女性教師と女子生徒がいた。避難所をまわり、道を通る人に尋ねた。しかし最後まで4名だけはどうしてもわからなかった。民放に安否確認を流してほしいと頼むと、もう今は一般番組にかわっているので流せないという回答だった。私は怒鳴った。「人の命と番組とどっちが大事やねん!」。その後大阪のNHKが流してくれた。その結果二人が見つかった。

 授業を再開するためには教室が必要だった。教室には避難者が生活していた。企業で部屋を貸してくれるところがないかと交渉に行ったが、どこも貸してくれなかった。教頭先生と須磨の陸橋の上で座り込んで、がっかりしてため息をついていると、目の前に須磨の水族園が見えた。二人で顔をあわせ「行こか」といい行ってみた。「うちのレストランを使われたらどうですか」と言ってくれた。「黒板がないなあ。」とつぶやいていたら、次の日には黒板も用意してくれた。

 大震災はかけがえのない命を奪った。亡くなった命は6434人の命。そのうち児童生徒は179名である。毎年「1.17希望の灯り」のセレモニーのときには、6700本の竹筒に灯りをともし、霊をとむらう。灯りの下には「この灯りは奪われたすべての祈りと生き残った私たちの思いをつなぐ」と書かれている。

 あるときおじいさんに出会った。年老いたおじいさんは80歳ぐらい。おさなごを背に背負い「わしの孫や」と言ってくれる。しかし、その子はおじいさんの背中ですでに息絶えていた。もう一度、このおじいさんに会いたい。「あのとき十分なことができずに」と伝えたい。

 中2の子が瓦礫の下敷きになっていた。余震で残った建物がまた崩れ、瓦礫が高くなる。「待っとれよ」と言って学校に行き、みんなで瓦礫をのけはじめた。そのとき、避難者が「火が来るぞ」と言った。しばらくして火が広がり、その子は友人の前で、先生の前で亡くなっていった。

 女性の先生がこんなメモを見せてくれた。「とても悲しい。あんなに優しかった父が地震でこわい父にかわった」と書いてあった。住んでいる賃貸のマンションが崩れ落ち、働 いている町工場がなくなり、父はパニックになった。地震は人を変えた。

 子どもと教師が本当の思いでかかわった。また、午前546分といえば、ほとんどの家族が家に揃っている時間。父が血を流しながら家族を助けた。母が髪の毛を振り乱し、おじいちゃんおばあちゃんを助けた。子どもたちはそれを見て親を再発見した。命がけで家族を救い、地域の人が助けあって大震災を切り抜けた。絆が生まれた。

 ある母親の手記がある。「あの子は天使です」というもの。母一人、娘一人の家族が被

災した。瓦礫の下から5時間後に救出された。娘の足には重い柱が長い時間のったままだった。「もうあの子の足はあきらめよう。命が残ったのだから」と母はつぶやいた。娘は元気に手術室に入った。

 クラシュシンドロームだった。その後、ICUに入った娘は目を決して閉じようとしなかった。20日後、意識がなくなっていった。その後、いったん止まった心臓が動き出した。そして娘は両手を上げて、渾身の力をこめてつぶやいた。「母さん、生きてね」。そして息絶えた。

 学校を休みがちだったある2年生の女子生徒K子がいた。震災後、毎日ボランティアで学校に来るようになった。なぜ学校に来るようになったのか。自分の家が崩れ、自分が下敷きになったとき命をかけて家族を救おうとする両親を見たのです。このことを誰かに伝えたい。だから私は学校へ来てボランティアをするのです。こういった。

 その後、2年生の女子生徒は、ある体の衰弱したおばあちゃんに、手に入れたお弁当を毎日毎日運んだ。200日間、体の動かないおばあちゃんの世話をしつづけた。おばあちゃんはその後、亡くなった。亡くなった日、その女子生徒が校長先生のところへやってきた。 

「先生、おばあちゃんがきょう「ありがとう」と言って、私の手を握ってくれたんですよ。そしてその後おばあちゃんは亡くなったんです」 

「おばあちゃんは私に感動をくれた。私に勇気と希望をくれたんよ。」 

 また別の話もある。断水が3ヶ月続いていた。男子トイレの大便器は数が少ない。3日間ぐらいで流せない大便は山盛りになる。すると大人の男性はどこへ行くか。女子トイレで用を足そうとする。

 「ここは使わないでください」と女子生徒と女性教師が頼んだ。「何ゆうとんじゃ」と突き飛ばされた。ある日トイレの戸が蹴破られた。それを見た男子が怒って、盛り上がった大便を木片でとり、バケツに入れ地面に穴を掘って埋めた。そしてプールから水をくんできて、トイレを流した。その後は、手で便をとる子もあらわれた。

 それを見ていた避難者が立ち上がった。「なんで子どもがせなあかんねん。自分らがやったものは自分らがかたづけるんや」。その後、避難者の自治組織ができた。

 震災が学校を地域に開いてくれた。生徒は卒業しても多くが地域で暮らしていく。この避難所でいっしょに生きた人たちが、また地域で暮らしていく。

  K子の話をはじめとして、かかわった人と避難者の間に感動が生まれた。感動は生きる勇気と生きる力に発展していく。教師と子どもの間でいかにして感動を生み出していくか。これが子どもに生きる勇気と生きる力を与えていくものと、鷹取中学校の避難所が私に教えてくれた。

(講演は一部省略してのせています)