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丸の内ブリックスクエアの中庭内から見上げて撮影した丸の内パークビルです。容積率は基本の1300パーセントに加え、東京駅の130パーセント、都市再生特別地区に基づく三菱一号館美術館の文化施設としての100パーセント、地域冷暖房プラントの設置による35パーセントをそれぞれ積み増ししての合計1565パーセントとなっています。
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再建された三菱一号館の建物内には「三菱一号館美術館」が設置されていて、19世紀の近代美術を中心とする美術館で、企画展を年間3~4回開催されています。
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美術館前から振り返って、丸の内ブリックスクエアの中庭を見渡してみました。日本で最高の立地条件の中に建っているオフィスビル街の中に緑豊かな空間が整備されています。
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この日は休日だったので、丸の内のオフィス街は無人状態でしたが、最近のこの界隈には商業施設が開業して来ているので、土休日や祝日でも賑わっています。
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現在の丸の内パークビルの複合施設が建っている場所には、かつて「丸の内八重洲ビル」「古河総合ビル」「三菱商事ビル」の三つの高層ビルが建っていました。
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丸の内パークビルの低層ファサード部分には、2006年7月に解体された「丸の内八重洲ビル」の壁面の一部が保存される形で残されています。とは言っても周囲には説明板も何もないので、事前の知識がないと全く気が付かなかったです。
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かつてこの場所に建っていた「丸の内八重洲ビル」は、かつて三菱の建築を担当する部門であった「丸ノ内建築所」の事務所として、1891年(明治24年)に建てられた建物跡に設けられた「三菱運動倶楽部」の諸施設が所在していた場所でした。
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その「三菱運動倶楽部」の建物が1925年(大正14年)に取り壊され、跡地に「丸の内八重洲ビル」の建設工事が1926年(大正15年)に起工され、1928年(昭和3年)に竣工しました。
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JPタワーの裏側の大名小路から丸の内パークビルの低層部の全景を撮影しました。手前側の石積みの美しい壁面が丸の内八重洲ビルの保存壁(上層階は高層オフィスビル)、奥に見える赤レンガ壁が三菱一号館です。
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東京中央郵便局の裏側にあった丸の内八重洲ビルといえば、この石積みの壁面と尖塔が特徴的な建物でした。尖塔もそれらしく復原されています(後述)。
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三菱東京UFJ銀行本店ビル前から、丸の内パークビルの保存壁を真正面から撮影しました。この日は休日だったので、高層オフィスビル内は無人状態になっていました。
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1937年(昭和12年)に三菱地所株式会社が設立された後は、三菱合資会社所有のもと三菱地所が管理を行っていたものの、1945年(昭和20年)3月に三菱合資会社本社より、敷地・建物が当時の350万円で現物出資として三菱地所に譲渡されました。
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終戦後は1946年(昭和21年)4月に占領軍に接収され、1956年(昭和31年)に返還されるまで米空軍宿舎「八重洲ホテル」として使用されていました。ちなみに、200メートルほど離れた場所に建っている第一生命館は、GHQの本部として活用されていました。
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バブル崩壊後の1990年代は、都心部西側の新宿や渋谷などの副都心の開発が進み、丸の内地区の相対的な地盤沈下が起こりました。当時の日経新聞に「黄昏の丸の内」などと書かれてしまう程だったそうです。
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そして2000年代に入って丸の内の壮絶な逆襲が始まることになります。2004年に三菱地所は「丸の内再構築」の第2ステージ第1弾として、本建物を含む3区画を取り壊し、跡地に丸の内パークビルディングおよび、かつて文化庁が重要文化財指定を検討する中、三菱地所が抜き打ちに解体しました。
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そして2009年4月末に丸の内パークビルは華々しく開業しました。そして2014年現在、東京駅周辺の再開発工事は猛烈な勢いで進められていて、新宿や渋谷などの副都心を追い抜きました。
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丸の内パークビルの低層階部分の全景を撮影しました。石積みの保存壁面と、尖塔部分がそれらしく造られています。これで真冬の丸の内パークビルの散策は終わりです。
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