懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

蒸気機関車 長野機関区の蒸気機関車

2014年05月22日 | 蒸気機関車
撮影場所 長野県長野機関区

長野機関区に蒸気機関車がいたころに機関区に立ち寄った。
すでに信越線は電化されていて篠ノ井線の蒸気機関車も姿を消していた。
大きな蒸気機関車はいなくて8620形とC56形の蒸気機関車がいた。
かってはD51やC57もいた扇形の機関庫はひっそりとしていた。

信越線を8620形が走ったのを撮影している。リンゴ畑から撮影している。
リンゴが沢山実をつけているのを初めてみたのには感激した。
C56形蒸気機関車は飯山線を走っていた。
その後、飯山まで行ったが沿線の光景の記憶は残っていない。
そのころは茅葺民家ばかりであっと思うが関心がなく見過ごしている。





岡山の茅葺民家写真展 -14 茅並ぶ その2

2014年05月21日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県勝山町古呂々尾中

岡山県の茅葺民家をさがし訪れていない集落を目指し走っていた。
勝山町から大佐町に抜ける県道から山に入った地域は空白地帯であった。
観光地もなく東西南北に抜ける県道や国道もなく行き詰まりの集落である。

木の橋も残っているし新しい家はなく時代が止っていた。
国道沿いなどは民家も新しくなるが年寄りばかりになった集落の民家は昔のままだ。
当然のように茅葺民家も残っている。
都市部とは30年の時代の違いのある風景が残っている。
こんな集落も10年もすれば茅葺民家も崩れ人口も減少するであろうと思い撮影した。

茅葺民家 鳥取県智頭町の茅葺民家

2014年05月20日 | 茅葺き民家
鳥取県智頭町の因美線沿いに集落が広がる。
田舎の雰囲気そのものの集落である。
代掻きが終わり何とも落ち着いた日本の風景である。
水田はアジアモンスーン気候のおかげである。以前は降雨量が少なくても育つ陸稲を植えていたが用水が整備されて水稲になってしまった。稲の育つシーズンに大量の降雨がある。
インド洋や東南アジアで発生した水蒸気がはるか日本や北朝鮮まで運ばれ水稲が育てられるのは有難いことだ。美しい日本の田園風景を作っている。

外国からの旅行者も京都や奈良ばかりではなく日本の田舎の風景を見て歩くツアーがある。
外人さんはどんな物を撮影しているか見ると稲を干す風景や水田、野仏にカメラを向けている。茅葺民家も白川郷を紹介したら観光地のものでなく実際人が生活している茅葺民家を紹介してほしいと言われたと書いてあった。

智頭町の美しい茅葺民家もほとんど姿を消したのが残念である。
デジタル一眼を買った頃には多くの茅葺民家が姿を消したのが残念だ。
しかし、地域によっては茅葺民家も残っているのでそれを一軒一軒拾っていくしかない。


日本茅葺紀行  NO,131 群馬県の養蚕農家

2014年05月19日 | 日本茅葺紀行

群馬県は養蚕王国だった。
富岡製糸が世界遺産に推薦される運びとなり群馬の養蚕技術や養蚕の文化が着目を浴びると思われる。いずれ養蚕民家も着目されると思われる。茅葺民家の養蚕農家は少なくなったが日本家屋の養蚕農家はまだ残っている。

屋根裏や二階を使い養蚕をやっていたので採光と通風のため屋根を押し上げたり切り落とした民家がみられる。私の住む岡山にも養蚕茅葺民家は残っていたが群馬のように自己主張が強い民家はない。

秋田の茅葺民家HPの五万米さんは昆虫に詳しく蚕には天蚕野蚕と人が飼育する養蚕がある事を教えてくれた。天蚕の蚕の繭を木から取って見せてくれた。緑色の美しい繭である。
ネットで見ると緑のダイヤモンドと呼ばれる程の高価な絹織物になるそうだ。
養蚕の蚕は品種改良と人に飼われたため昆虫としての野生機能が退化してぶら下がり繭を作る事が出来ず家畜化した昆虫と書かれている。
野生に放しても鳥などにすべて食べられてしまうと書いてある。
養蚕の盛んなところは蚕をおしらさまと崇め神格化している。
そのため蚕を数えるのも一匹二匹ではなく一頭二頭と数える。
正月には柳の枝に蚕の形に似た餅を付けて飾る風習が残る。

今、全国を走っても桑の木をほとんど目にしない。
子供の頃に口の周りを紫色にして食べた。甘い物に飢えていたので美味しかった記憶が残る。






懐かしい風景 ボンネット特急電車

2014年05月18日 | 鉄道
撮影場所 岡山県里庄町 山陽本線

昭和50年3月の新幹線博多開業までは在来線で多くの特急電車がみられた。
一日撮影したら何台撮影できたであろうか
撮っている時は電車をモノクロで撮影しても意味がないと思い本気で撮影しなかった。
電車はカラーでないと意味がなかった。
電車はモノクロ向きの被写体ではなかった。
それでも今となってはモノクロでも撮影しておけばよかったと思う。

「はと」や「つばめ」の歴史ある名前が山陽線を走っていたのは撮影しておくべきだった。
この電車は交流60HZ直流区間を走る481系ではなかったかと思う。
こんなボンネット形の特急電車も懐かしい。直流の大阪から交流区間の九州の乗り入れが出来る、以前は直流電車は関門海峡で電気機関車に牽引され博多に向かっていた。

昭和の時代だ左端に木の半鐘が見える。

岡山の茅葺民家写真展 -13 茅並ぶ その1

2014年05月17日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県鏡野町越畑

岡山にはふるさと村というのがあり茅葺民家や古い家並みの残るところが指定された。しかし、この財政難の時代には県からの支援は難しくなった。茅葺民家など残るところもあるが今後は次第に消滅の方向に向かうであろう。この越畑もふるさと村のひとつであった。
茅葺民家も10数軒残っていた。
今も人が生活している茅葺民家が数軒残る。
写真のような茅葺民家が2軒続いていたが今はトタンを覆い人が住む気配もない。
越畑へは加茂町からも奥津町からも峠を越してこれる。
奥津からの道は狭く厳しい峠道だったが今はいい道になっている。

茅葺民家   兵庫県多可町の茅葺民家

2014年05月16日 | 茅葺き民家
多可町の棚田百選に選ばれた棚田の中にある茅葺民家
よく残っていたものである。数軒の茅葺民家があった。
多可町は西脇市や加西市の隣、余り訪れる機会のない土地である。
兵庫県で茅葺民家を撮影している人に教えてもらった。
こんなところに茅葺民家が残っているとは思いもしない。
ここの棚田の畦道は崩れないようにコンクリートを打ち補強している。
棚田を撮影する人は畦の部分が白く映るので目ざわりになるかもしれない。
そんな事を地元の人に言ったら叱られる。農作業もしない者がカメラを提げて仕事の邪魔になると言われるに違いない。


日本茅葺紀行  NO,130 青森県金木町の茅葺民家

2014年05月15日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 青森県金木町

金木町の国道沿いにある茅葺民家、走っていればだれでも気付く民家だ。
しかし、今もあるかどうか分からない。
津軽地方特有の棟飾りハッポーが乗っている。今はトタンで覆ったものが多いがやはり自然素材の木製のものがよい。

金木町といえば太宰治の生家がある。私も立ち寄り、前の観光施設で津軽三味線の演奏を聴いた。
各地に旅行をする時は朗読のCDを図書館で借りていく。この時は太宰治の作品を何作か借りていった。
朗読を聞くと太宰の作品も敷居はたかくない。
この後は竜飛岬まで走った。ここを走れば下関から日本海沿岸一般道を20年掛けて完走したことになる。特に記録のための写真も撮っていないが走った事が記憶にのこればよい。
鳴き砂の琴ヶ浜、島根半島、丹後半島、能登半島、柏崎原発の横を抜け、随分内陸部にあった象潟、大山、立山、鳥海山に岩木山を見ながら走った。

竜飛岬もJR津軽海峡線沿いの道は走っていない。茅葺民家があるとは聞かないのでためらっている。

蒸気機関車  函館本線C623号機

2014年05月14日 | 蒸気機関車
撮影場所 北海道 函館本線小沢駅

小沢駅でC623号機が牽引する普通列車が武骨な9600形蒸気機関車の横を走り抜けた。
9600は廃線になった岩内線に向かうのか
蒸気機関車を撮影した人は多く沢山の写真が残されている。世代としては団塊世代から上の人である。
ホームページやブログでその当時の写真を見せてもらうと何か落ち着く。
二度と戻れない昔のよき時代であった。
年齢を重ねるに従い昔の古い写真が懐かしく探すのである。

「そんな時代もあったあったねと」と中島みゆきの時代の歌詞をくちぶさむ。

岡山の茅葺民家写真展 -12 山懐に抱かれて その3

2014年05月13日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県山陽町

山陽町は岡山市の東隣で大きな団地もいくつかあり岡山市のベッドタウンになっている。
そんな中、少し田園地帯に入ると昔ながらの集落がある。
山裾にへばりつくように家々が並ぶ
そんな中に茅葺民家が2軒並ぶ
同じ苗字なので親戚関係になるのであろう。
どちらも寄棟造りで一軒は棟に煙抜きがついている。地元の人の話では本家には煙抜きがついていて分家はつけないと言っていた。
分家は本家より大きい家は建てないともいう。
本家、分家の差別化をしているあたり厭な風習にも思う。
昭和50年頃に訪れていたらまだ田舎の風景が残っていたのであろう。
しかし、いつも見慣れた田舎の風景をカメラに収めた人は少ない。