懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺き民家 広島県熊野町の民家 モノクロ

2014年12月23日 | 茅葺き民家
母屋と小屋が茅葺きの民家、県道から奥にはいったところにあるので建物などがなくいい風景だ。この民家は写真集にも入っていた。
ただ゛欠点は中央部に電柱があることだ。この電柱を入れないために小屋側から撮った。
正面に柿の木があり柿が色づいた頃にいい写真になったであろう。
この家は現在住んでいない。倉庫代わりに使っている。
持ち主はこの家の前に家を建てて住まれている。
現在も健在なのかはわからない。
今茅葺きはトタンを掛けるより取り壊してしまう家が多い。
両親が亡くなり子供が都市部に住み帰る見込みがない家は取り壊される確率が高い。
家族は維持費に金の掛かる茅葺き民家は負の遺産と考えている。



日本茅葺紀行 NO,182  山形県白鷹町の民家

2014年12月22日 | 日本茅葺紀行
山形市と白鷹や長井市を結ぶ国道348号線から見えるとこにある茅葺き民家。
白鷹から山形市には峠越えになっている。
その道沿いに集落が点在してわずかながら茅葺きが残る。
昭和40年代の東北の田舎にはどんな風景が残されていたのであろうか
さぞかし郷愁に満ちた風景であったと思う。
車の免許も持っていなかった時代、交通手段もバスに頼るしかなかったであろう。
峠越えの道も悪路であったとおもう。
山形には蒸気機関車を撮影に訪れただけである。白鷹には国鉄長井線が走っていたがここまで来る時間は無かった。
しかし、その当時は鉄道の事しか興味がなく民家などには全く目がいっていない、
カメラがデジカメになっても写真は自分が構想しているものしか撮れない。
何も考えなければ撮る動機さえ起きない。カメラは簡単に扱える機械になったが個人の構想力や企画力、交渉力によってどうにでも変わる機械である。

茅葺き民家の前の畑には桑が植えられている。
刈り込まれているのでまだ養蚕をやっているのであろうか。
この民家も採光や換気のため妻側の軒が切り落とされているので養蚕民家だったのであろうか

余談だが昔は雷がなるとクワバラクワバラ(桑原桑原)と呪文を唱えていた。
雷鳴が聞こえると母も祖母もクワバラクワバラと言っていた。
いまもこんなの唱える人はいるであろうか

懐かしい物 倉敷市下津井大畠の屋根

2014年12月21日 | 懐かしい物
大畠(おばたけ)は下津井四港のひとつネットで調べると下津井、吹上、田之浦、大畠が下津井四港とよばれていたようだ。
大畠の町並みも撮ったように思うがネガが見つからない。
山の上から瓦屋根を撮った写真がでてきた。
高いところから見下ろすと家々の風景が現在と昭和とでは違うのがわかる。
まだ日本瓦や本瓦葺きの民家が多いのがわかる。
現在は総二階の家が多くスレートタイプや鋼板の屋根材が多くなっている。
瓦は地震で落ちるし重量が重いので不利である。
こんな日本瓦の風景は何十戸の漁村や農村集落でも見られたと思う。
せめて岡山県内だけでも撮っておけば記録として値打ちがあったとおもう。
40年、50年後はこう変わるからこんなものを撮っておけばいいというのがわかっていればみんな撮っていたとおもう。
写真はやみくもに撮るだけではいけない、撮り方の本や講演はある、しかし何を何の為に撮るのかがない。それは自分で考えろということか。分からないのでみんな撮っている富士山や綺麗な風景や花を撮っていしまう。

古い町並みの写真展をした時に屋根ばかり撮っているいう人が見に来てくれた。
最近、日本瓦の屋根の集落を撮っていると言っていた。81歳と言っていたがまだ元気で高いところにも登れるという。下津井の屋根の写真を見てどこで撮ったか聞いて来た。もう40年も前の写真なのでこれと同じはない言った。81歳になっても新しいテーマに取り組む姿勢が凄いとおもう。現在そんな物を撮ってもゴミになるだけであると私は思った。
人生は諦める事も必要ですと言おうとおもったが81歳になって気づいただけでもましである。人生に何一つ無駄はないが、いままでの人生が余りにも無駄であった。80歳になって君とは20歳の時に出合うべきだっという映画のセリフがあるがそれに似ているな。




岡山の茅葺民家写真展 - 64   出合った人々 その4

2014年12月20日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県上斉原村

上斉原村は岡山県の北部、人形峠を越えたら鳥取県
下斉原という地名もあるがこちらは奥津町になる。
上斉原の町の中に茅葺き民家が何軒かあった。
そんな中にあった茅葺き民家、茅は葺き替えて間が無かった。
この家には若い夫婦も同居していて小さな子供も住んでいた。
女の子だったが鯉幟の小さなのを持って走っていた。
あっちこっちと動き回るのにお母さんは追いかけるのが大変
そんな風景を撮らせてもらった。
茅葺き民家に子供が住む事は珍しい。出来るだけ撮らせてもらう事にしている。

この子供ももう成人しているが故郷をはなれることであろう。
地方のローカルな地域は段々衰退していく、効果的な対策はないのであろうか

日記用ノート

2014年12月19日 | 日記
日記にノートを使っている。
日記帳だと書くスペースが決まっているがノートは何ページでも書ける。
それにノートは安い。
私はコクヨでなくアピカの60枚B5版をつかっている。これを年間三冊使う。
文具店に買いに行くと余り売れないのか取り寄せになる。
いろいろと難しい事をいうのでネットで買った。
輸送費が410円かかるので文具店で買った方が安い。
私の場合は自宅に配達してくれるネットが楽である。

ネットで買うと10冊単位のために3年分はある。
三年生きられるかどうか思いながら買った。
このノートが無くなるまで生きようと考えなおした。

毎日の予定や出来事はパソコンに簡潔に記録しているので過去10年の出来事はすぐに見る事ができる。日記を書く必要は全くないのだが効用もある。漢字を忘れないためと手のリハビリを兼ねて書くことにしている。生活は便利な現在の利器ばかりではいけないと思う。
アナログで面倒な事も合わせてやる必要があると思う。

ほとんど外出をしないので見聞することが少ない。寝る前に10分他愛もない日記を毎日書いている。書かないと気分が落ち着かない。日記なんかそんなもので良いと思う。

私が日記を書き始めたのは23歳の頃で余りにも安逸な日々をおくっていた。休日の夕方になると何もせず外出もせず虚しさに襲われた。
日記に書ける生き方をしよう、家に籠らず身体を動かし外出して見聞きしようと思った。
カメラを持って出歩くようになったのに合わせて日記書きが始まった。










茅葺き民家 山形県飯豊町の民家 モノクロ

2014年12月19日 | 日本茅葺紀行
山形県飯豊町(いいでまち)の白水ダムの湖畔で泊まったことがある。
山形には新潟の関川村から国道で米沢を目指す。新潟県は高速道路が日本海側を走っているので近くなった。
飯豊町に入り手の子のあたりから山間部に入ると白川ダムがある。
飯豊町の白川ダム周辺は五月でも厚い雪が残っている。気温は氷点下に成ることはないので道路が凍る事はない。
この湖畔に宿泊施設が二箇所ある。なんでこんな辺鄙なところに泊まるのかと聞いたら米沢駅から送迎してくれるので三日間温泉三昧だと言っていた。
東北の春は山菜料理が沢山でるのがたのしみだ。
私も何で岡山から山の中に来ているのかと聞かれた。山の中の集落を巡り茅葺き民家を探すと言ったらホーといったが深く聞いてこなかった。

飯豊町というので飯豊山があるからかと地図を見たが飯豊山のあるのは隣の小国町である。飯豊山の水は荒川から新潟に流れるが飯豊町に降った雨は最上川に流れる。

地元の人といろいろ話ながら茅葺きの所在を聞きながら五軒ほど撮影した。
写真の民家も教えて貰った民家だ。
農家でも豪壮な造りである。東北や新潟ではこんか素晴らしい民家に出合うが魅力だ。
ご主人は炭を焼いていた。話掛けても黙々と作業をしていた。
飼い犬も離し飼いでメス犬なので大人しく人懐っこい犬だった。
こんな雪では苗代も作れない。田植えは六月であろうか



日本茅葺紀行 NO,181  広島県高野町の民家

2014年12月18日 | 日本茅葺紀行
広島県高野町は中国山地を背にした高原の町である。
中国山地を越えれば島根県仁多町の上阿井に抜けられる。
すでに高度が高いので広島から島根に抜ける国道の峠は余り厳しくない。
峠につながる無人の農産物売り場で大根一本100円を何本か買った記憶が残る。
高野町は積雪の多いところだ今年もかなりの積雪になっているであろう。
高野町には茅葺き民家が点在していた。
神社や茅葺き民家、集落のたたずまいに落ち着きがあり日本の田舎の形を留めていた。
好きな地域のひとつであった。
朝早く起きて一般道で庄原経由でに何度も通った。
それも時代の流れで県道から見える茅葺き民家は姿を消した。

現在、この民家のあたりに松江道ができて無料区間で走れる。山を越えれば吉田村である。
20年前にはよく走った地域である。出雲まで我々のところから高速道路で行けるようになった。道路ができてどのように変化したか見届けたいものだ。

蒸気機関車 石北線常紋信号所

2014年12月17日 | 蒸気機関車
撮影場所 北海道石北本線

常紋は蒸気機関車の撮影ポイントであった。
急勾配の線路を喘ぎながら重連で登ってくる光景は絵になった。
煙が垂直に上がる程、スピートが遅かった。
撮影ポイントも沢山あるしスピードもゆっくりだし誰でも80点の写真が撮れるところだった。(露出とピントが合っていれば)

私の行った日は一日快晴だった。誰もいないと思ったら山の上から俯瞰撮影していた人々がぞろぞろ降りてきた。早朝から来ていて山の上で撮影していたのだ。
蒸気機関車を追いかけて撮影に出かけた人々も還暦を過ぎているであろう。こんなネガはもっているであろうか。現在はどんな生活や趣味をもっているのだろうか
写真は現在も撮っているのであろうかどんなテーマで撮影しているのか気になるところだ。
蒸気機関車の写真を見ると若い頃、情熱を燃やした自分がいた事を誇りに思えるのだ。
今は歩けない身体になっても過去の頑張りを糧に人生の希望は消えないものだ。

ここは峠になっていて駅と駅の間が長いので信号所を設けていた。特急が通過するときは貨物列車は退避線路で待っていた。
キハ82系の特急おおとりが通過している。タブレット交換をするため窓を開けている。
現在は信号所の役割は無くなっていると書いてあった。
写真展をした時にこの気動車はキハ182系かキハ82系かという話になった。
何人かでしていたら脇からこの当時、北海道にはキハ82系しかいなかった。馬力の強いキハ182系の導入はずっと後だっといった。鉄道から何十年も遠ざかっていた私は鉄道ファンは知識の塊であると思った。

岡山の茅葺民家写真展 - 63   出合った人々 その3

2014年12月16日 | 岡山の茅葺民家写真展
撮影場所 岡山県加茂川町(今は吉備中央町)

加茂川町の県道沿いに茅葺き民家があった。その前の家で女性が作業していたので撮影させてもらう。民家の方は取り壊されて更地になっている。
1輪車にはモッコが乗っている。女性も作業着や装いが昭和のままである。
収穫した牛蒡ごぼうを束ねて土にうめ保存していた。
インターネットやスマホと隔絶した世界で今までと変わらないスタイルで生きてきた人も貴重である。年を取っても流行を知らないのを恥じる傾向がある。世間の流行に惑わされず自分のスタイルを生きる事も大切である。各地を訪れ土地と共に生きる人々に出合うのが旅の目的である。
芳井町明治は明治牛蒡として有名だが保存はどうしているか聞いたら棚にビニールに入れた牛蒡を並べている。ビニールにぎっしり入れる事で乾燥を防げると言っていた。

茅葺き民家 秋田県五城目町の民家 モノクロ

2014年12月15日 | 茅葺き民家
秋田県五城目町の北ノ又というところに茅葺き民家が五軒並んだ写真がネットに投稿されていた。東北で茅葺き民家を撮っていた人は知っていたようだ。
五城目町は八郎潟から山に入ったところ隣には小阿仁になる。
昔はマタギが熊を獲っていたかもしれない。
北ノ又の近くに蛇喰という集落があり名前を聞いただけでゾッとする。
秋田特有の民家が10軒ほど残っていた。
夕暮れに一時間程撮影しただけだった。
じっくり時間があればいい写真が撮れたと思う。

薪などを積み生活感のある民家が残っていた。こんなのに出合う心が落ち着き昭和に戻った木がする。