懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

2016年 茅葺写真展 干す その1

2017年06月23日 | 2016茅葺写真展
撮影場所 兵庫県小野市

茅葺民家の庭に収穫した豆などを干して乾燥させている。
昔ながらのむしろやゴザの上に干している。
収納する藁で編んだ袋も昔のままである。

現在なら化成品のシートや大型の容器を使う。
人は藁や棕櫚の皮や麻の繊維、綿花を使い紐や袋を作った。
藁は材料費がタダ同然で畳や筵や縄や米俵や叺(かます)草履を作った。

人間の知恵とはすごいものだ江戸時代鎖国のために外国の物がほとんど入らなかったが独自の文化を作った。
年齢の上の先輩などワラジを前の晩に編んで次の日に使ったと言っていた。
私などむしろや縄を編んでいるのを見た程度で作った事もない。

茅葺民家  動物のいる家

2017年06月22日 | 茅葺き民家
撮影場所 広島県大和町

農家にお邪魔する。
ほっかむりした住人の方、犬が二匹に猫が三匹いた。
ネコの一匹は私がちか近づいてもじっとしていたが二匹は縁の下に逃げ込んだ。
縁の下が開放ていた家は犬猫が住み付いたりネズミの棲みかにもなる。

縁の下に子供が入れるほど空いていた家もあった。
縁の下から吹く風は夏場は涼しかった。かび臭い匂いもしたが涼しいのはありがたい。

私の家も猫を飼っている。外には出さずに飼っている。
喧嘩をして怪我をしたりエイズなどの病気をもらうし交通事故も怖い。
外にら出るとノミを貰って帰る。動物のノミは人には嚙まないというが嘘だ。
家で繁殖するとかゆくてたまらん。

日本茅葺紀行 NO,373 洗濯物のある風景

2017年06月21日 | 温泉
撮影場所 京都府旧美山町


美山町の南の端の集落、集落というほど民家はない。
点々と民家が残る峠を越えると京都市の広河原だ。
美山町の北地区のような喧噪も賑わいもない。
車も通らない静寂である。動物の天下の地域である。

杉の木の幹にはビニールテープを巻き鹿の角砥ぎで樹皮が剥けるのを防いでいる。・
各所に猿の捕獲用の檻がある。
餌は玉ねぎ一個、あんな苦い物を食べるものだ。

猿は軒に吊るしてある玉ねぎも屋根から手を伸ばし盗って帰るそうだ。
犬猫は玉ねぎやネギを食べさせると血栓ができるので与えない。
人間は玉ねぎが血液をサラサラにするという。
こんなの何が本当なのと考え込んでしまう。

女性が草抜きをしていたので写真を撮らせてもらう。
一人住まいだそうだ女性の一人住まいは物騒なので男物の作業服も一緒に干す人もいる。

これを撮影したのはフィルムカメラの時代
もう随分行っていない。この民家は今も残っているか山間部の集落は人と共に民家も姿を消す。人の記憶と映像だけが残る地域もこれからはでてくるだろう。

蒸気機関車 香月線の列車

2017年06月20日 | 蒸気機関車
北九州の筑豊線から分れた枝線に香月線があった。
炭鉱の石炭を運搬するために敷設された。
しかし、閉山で昭和60年4月に廃線になる。
線路は中間駅から香月までの3.5キロと短いものだ。

蒸気機関車に乗って何で香月まで行かなかったのか悔やまれる。
将来廃止されるのはある程度分かっていた。
実行力がなかったのに呆れる。

きっちり蒸気機関車を撮っている人は北九州の網の目の支線を撮っている。
写真を記録として撮る者は対象物の抽出と優先度を付けて正確に記録すること求められる。
私には北九州の支線をすべて撮る事がリストアップにも上がっていなかった。
支線の列車、駅の写真、ホームと線路や駅の切符の蒐集


心を打つ仏たち

2017年06月19日 | 懐かしい物
撮影場所 1.モノクロは兵庫県加西市 北条の五百羅漢 2.青森県津軽地方 稲垣村の身代わり地蔵

素朴な庶民の作ったような石仏が哀愁があっていい。
こんな石仏が残る背景には飢餓、疫病、水害や地震などの災害、戦や戦争の暗くて厳しい歴史があったのであろう。
五百羅漢は庶民が彫って納めたようにも思える。
石は加工しやすい柔らかめの凝灰岩などが使われる事がおおい。
瀬戸内沿岸はかっては火山帯が通っていいた。
花崗岩が多く産するところからも火山のマグマが押し上げ山になったのだろう。
いつかネットで赤穂市から相生市や岡山の備前市にかけて半径20キロの巨大カルデラ噴火の痕跡ではないかと書いてあった。しかし、8000万年も前の事で地形は浸食されていて今後の詳しい調査で判明される。
半径20キロのカルデラと言えば阿蘇山のカルデラに匹敵する大きさだ。
日本人の大半は亡くなる規模の噴火だ。

稲垣村の身代わり地蔵 子供が災害や危険に遭わないように地蔵さんにお願いを込めて納められた石仏
この周辺に2000体あると書いてあった。私も街角の石仏にカメラを向けた。








2016年 茅葺写真展 山間民家 その2

2017年06月18日 | 2016茅葺写真展
撮影場所  新潟県上越市

今の時代、山間地を走っていてバッタリ茅葺民に出会うと嬉しいものだ。
ネットや航空写真の時代、実際車で走るより映像から探した方が早い。

しかし、旅はその場に行かないと分からないしいろんな見るものや聞くこともある。
若い頃は自分で運転してどこにでも行ったが高齢化すると運転も危険でツアー旅行になる。

個人の茅葺民家の撮影はツアーには入っていない。
元気な頃か歳を取っても元気な人しかできない趣味だ。
茅葺は年々減るし時間との勝負だ。

新潟まで行くと家々の周りに大木を植えてあり風景に落ち着きがある。高木の杉のある風景だ。
家の周りを林にするには土地も広くなくてはできない。
私の周りでは少ない風景だ。
あと30年もすると日本からこんな茅葺と田園風景は消えるのであろう。






茅葺民家 モノクロ 島根県旧横田町

2017年06月17日 | 茅葺き民家
広島県から中国山地を越えたら横田町である。

観光と言えば木次線の坂根駅のスィッチバックと駅の湧き水、延命水であろうか
蕎麦屋が最近は沢山できてどの店も美味しい。
県外からも大勢蕎麦を食べに訪れる。
現在はスマホなどで検索してやってくるのでこんなところをよく見つけるなと思う。

私はお客や店の人に声を気楽に掛けるので家内が連れ合いでないという顔をする。
話かければ自分の知らない事や地域の情報を得られる。
それはまたブログのネタに使える事もある。

横田町には茅葺民家が沢山あったがほとんどがトタンを掛けたであろう。
昭和53年頃に山陰から峠越えで広島に抜けた事があるが酷い道だった。
あの頃ならば茅葺民家も沢山あったと思うが無事帰れるかそれが気になり周囲を見る余裕もなかった。


ラジオは聞きますか

2017年06月16日 | 日記
身体が不自由なのでラジオを聞きながらパソコンを見ていた。
新聞などに載らない個人の行動や嗜好もきけたのでよく聞いていた。
しかしブログを書くのに集中できず最近は聞く機会が減った。

今必ず聞くのはNHKの土曜日15時からの「ぼやき川柳」と日曜10時からの歌の日曜散歩であろうか
ラジオで感動したのは東日本大震災のあとの放送だった。柿沼アナウンサーの担当する番組だった。
震災後一か月、番組の規制があった時に避難所の子供たちがマンガの放送もなく元気がない。
アンパンマンのマーチを掛けて子供を元気づけたいというリクエストがあった。
この曲が掛ったあとは大反響でネットやテレビでも取り上げられた。
この歌詞はやなせたかし氏が戦死した弟のために作ったもので震災の救出や復旧に向かう人への応援歌でもあった。
私も聞きながら涙が止まらなかった。
この曲は余りにも反響があり翌日も掛かった。

日本茅葺紀行 NO,372  茶畑のある風景

2017年06月16日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 兵庫県三田市

三田市の山の中もの集落に茶畑があった。篠山市でも茶畑と茅葺民家をみた。

茶畑も零細な農家の茶畑は消える運命にある。高齢化や過疎化と需要の落ち込み。
静岡や鹿児島、奈良などの大規模な産地だけが生き残っている。
茶の需要は生活様式の変化で激減しているのかと思ったら横ばいである。
朝はコーヒーやミルク、ジュースを飲み昼や夜はお水を飲んでいる人がおおいのではないかと思った。
ペットボトルの需要や抹茶の飲み物やお菓子などで根強い需要があるようだ。
YOUはなにしに日本への番組で外人の中にはお茶に詳しい人や愛好者が多い。
日本人以上に味覚が優れているのに感心する。

日常でお茶を飲む習慣が消えていくように思う。
食べ物や飲み物が豊富に出回っているのでお茶にこだわる人も少なくなったのか

家庭に立ち寄るとお茶をだす風習はなくしたくない。夕食にもお茶をだす習慣はなくしたくないものだ。

奈良県も茶畑が多い。茅葺を撮りに山間部に行った。
村有地をゴルフ場に貸しているその借地料で製茶の工場を作った。
高齢の夫婦が働いていた。どのようにしてお茶を作っているのか見せてもらった。
地域で刈り取ったお茶をこの小さな工場で製品にする。
作業をしている時に迷惑を顧みずカメラを下げるが入ってきたと思ったであろう。

こんな体験が旅では必要だ。出会い、目にしたものを見る聞く事が必要だ。
おとずれたのは6月中旬で番茶のシーズンだった。出来上がったお茶をだしてれた。
番茶もこんなにおいしい物かと思いながら飲んだ。


私の昭和鉄道遺産 その33 飯山駅のC56

2017年06月15日 | 私の昭和鉄道遺産
蒸気機関車の走っている頃に長野県飯山市に飯山線に乗り一度だけ行った事がある。
駅にC56型蒸気機関車の貨物列車が停車していた。

働きながらでは何度も撮影に行ける環境ではなかった。
定年後は茅葺民家撮影や観光で飯山には何度も行った。
鉄道の撮影の頃は昭和46年でさぞかし昔の農村風景が残っていたと思うがほとんど記憶にない。
関心もなく目に入らなかったのだろう。
過ぎ去った時代を考えるとボケーと生きていてはいけないということです。関心があれば車内から農村風景を撮ればよかった。

日々の出来事に興味と関心を持ち続けたかで長く生きている内に大きな差になるなあと思う。
感性も低く感動も関心も少なく生きてきたと思う。
高度成長期に入る時には大きな変化があった。
その変化でどう変わるかを予測して記録した人は偉いと思う。
その時代に生きていると変化は気付かないものだ。

平成の時代も終わろうとするがこれから何が消えるかの予測はなかなか難しい。
しかし世の中は日々変わっていく。