日本人は多神教である、あらゆるものや現象に神が宿ることに何の違和感もない、しかし世界の大半は一神教である、多神教では生まれ育つのに感謝するのは自然の神々と親である、日本の神々と言うより多神教の神々は戦争を好まない、それは自然の摂理に反するからだ、私は日本に生まれて育ったので絶対的一神教は理解し難い、そこで生まれた時から生活の隅々まで絶対的「神」の祝福と試練を頂く社会に生きる人々に「あなたの神は戦争を望んでいるのか」と言う事を聞いてみたい、
沖縄は「神々の島」と言われる、そこに戦争の為だけの施設「軍事基地」を作るのは彼らの神は「信ずるものは救う」が「異教徒」の民だから救う必要はないと言うのか、我々の神は寛容である、信じない民も一様に庇護する、民は日々の結果に感謝し自然の脅威に恐れ許しを乞う、その心だけであるが感謝しないから罰を与えることはない、因果応報は仏教の教えである
多神教の民が神にする「感謝」と絶対的一神教の民が神にする「感謝」はかなりかけ離れて居るような気がする、キリスト教でもイスラム教でも「神」は名もなく形もない、有るのはメッセンジャーである「預言者」である、神の言葉を「預かって」民に伝える、と言うのはメッセンジャーの意思が入らないという保証はないのではないのか、だから同じユダヤ教の神であってもキリストとムハンマドでは違うのではないかと言うのは不敬かも知れないが逆に「神」の名誉のために「神は戦争を望まない」と思いたい、神は我子同士が殺し合うことを望んでいるとは思えないのだ、
「我欲を捨てて神の意志に沿う様に生きなさい」と言うのは基本的な教えの一つだろう、いま戦争を行っている人々も我欲にその心を乗っ取られた様な人々はそれこそ「異教徒」だと言えるのではないだろうか。
十戒より
その隣人の家をむさぼるなかれ、また汝の隣人の妻、
およびそのしもべ、しもめ、牛、驢馬、
ならびにすべて汝の隣人の持物をむさぼるなかれ
沖縄は「神々の島」と言われる、そこに戦争の為だけの施設「軍事基地」を作るのは彼らの神は「信ずるものは救う」が「異教徒」の民だから救う必要はないと言うのか、我々の神は寛容である、信じない民も一様に庇護する、民は日々の結果に感謝し自然の脅威に恐れ許しを乞う、その心だけであるが感謝しないから罰を与えることはない、因果応報は仏教の教えである
多神教の民が神にする「感謝」と絶対的一神教の民が神にする「感謝」はかなりかけ離れて居るような気がする、キリスト教でもイスラム教でも「神」は名もなく形もない、有るのはメッセンジャーである「預言者」である、神の言葉を「預かって」民に伝える、と言うのはメッセンジャーの意思が入らないという保証はないのではないのか、だから同じユダヤ教の神であってもキリストとムハンマドでは違うのではないかと言うのは不敬かも知れないが逆に「神」の名誉のために「神は戦争を望まない」と思いたい、神は我子同士が殺し合うことを望んでいるとは思えないのだ、
「我欲を捨てて神の意志に沿う様に生きなさい」と言うのは基本的な教えの一つだろう、いま戦争を行っている人々も我欲にその心を乗っ取られた様な人々はそれこそ「異教徒」だと言えるのではないだろうか。
十戒より
その隣人の家をむさぼるなかれ、また汝の隣人の妻、
およびそのしもべ、しもめ、牛、驢馬、
ならびにすべて汝の隣人の持物をむさぼるなかれ