昔から生きる為の要件として言われる言葉だ、エンゲル係数なる言葉もある、総支出に対する食費の比率だ、しかし貧困層と言われる階層には余り意味が無いだろう、特に都会では「住」の比率が異常に高い、「住」に掛かる支出は所得が少なければ5割になる、平均年収が300万円台が半分以上になっている、しかし6畳とお勝手が付いてシャワーが付くと家賃は7万円台だ、年間85万、光熱費を入れれば120万を超える、住むだけである、着る物も食べる物も入れずに半分近くが消える、年金はこの「住」の部分で終えてしまうのだ、片や貸している方は礼金と言う名目で修理維持費をだして家賃はそのまま収入だ、「税金でもって行かれる」と言うが貧困から取った金を税金で国が持ってゆくのは本末転倒だろう、歳を取れば貸してくれる家すらなくなる、住処が無い状況で消費を増やせと言うのは無理だろう、消費が増えなければ内需は上がらない、子供手当も大事かもしれないがそれが内需に廻るのはその子供達が稼ぎ出してからだ、金は廻ってこそ金だ、一部の金持ちと多くの貧乏な国民では税収が上がらないのは当たり前だ、雇用促進とは雇用する仕事を増やす事だ、内需を押し上げるのは停滞している金を動かさなければ成らない、「相続税の軽減」と言った意見が出たことがあるが多くの人は相続する様な資産はない、極端に言えば相続は廃止する方が良い、社会主義ではないので稼ぐのは自由だが、ある一定の金額を除いて死亡したら国庫に帰する位にしないと一握りの人間が延々と持ち続け金が金を集めてその差はどんどんと広がる、我国の総理大臣のように小遣いで年間数億を渡せる働いていない人間が居る、数千万の給料を貰っている子供にだ、国が決めた人間が最低だが生活出来る金額ではどうしようもないが残された人間が働ける状況で無いならそれに応じた配分を残し残りは国庫に帰して、その資産で全ての人間が最低元の生活が出来る様にすべきではないか、家と土地に関して言えば大化の改新の頃の様に国有として有用に利用する物に貸し出し法人以外は一旦国に返してその系統に優先権のある賃貸にすべきではないか、何も天皇家の物だとは言わないから、
先月終わり頃散歩にとJRの「都区内切符」を利用してみた、23区内何度でも乗り降り自由で1日有効で730円なので時間潰しに丁度いいかと夫婦で出かけて見た、取敢えず一番外側と言う事で赤羽で降りる事にした、此処で降りるのは初めてである、我々夫婦は商店街を散歩するのが昔から好きなので目玉は無くとも結構楽しめるのだ、駅前のアーケードを見つけて入ってみる、食べ物の店が多い、飲み屋さんも有るが基本的に食堂である、洋品店は少ない、宝飾や時計店は入口付近のアーケード外に有った、300m程度で終える直前の右側に小学校らしき建物がある、何か看板が有ったので読んで見ると「本年を持って岩淵小学校(第?が付いていたかも知れない)は廃校になりました」と書いてある、駅からも近く商店街の外れで恐らくマンションになるのではと言う立地だが、実に残念ではないか、此れを見て品川で一部取られている方式を思い出した、すこし突っ込んで学校跡地を今不足している保育所にしたら如何か、一部を乳幼児から就学前の児童に、そして後一部を老人施設にしたら良い、保育所と老人施設は慢性的に不足している、保育士を育てても施設が無いと言うのなら此れを充てれば良い、新聞で見たが「保育施設には調理スペースが必要で此れだけで2千万位は掛かる」と有ったが小学校中学校は給食用の調理スペースがある、又老人施設の調理も可能な大きさは有るだろう、多少は違ったメニューが必要だが味付けを変えればかなりの部分が流用できるだろう、共用スペースを遊戯室に当てて置けば責任を負わせるのではなく年配者が子供の相手をしていれば保育士の目が届かない部分をカバー出来るし、それに寄って年配者の生き甲斐も生まれる、又栄養士や調理師等の職も確保出来る、岩淵小学校の位置だったら手芸的な物や小さな商いも出来るのでは無いか、無論維持管理に金は掛かるがばら撒きの子供手当に使うよりずっと効果が期待出来る税金の使い方ではないか、耐震化工事を進める事でも一時的とは言え仕事が確保出来るのだ、兎に角職を作らなければ就職は出来ない、政府は「雇え」と言う前に「雇う事の出来る職」を作らなければならないのだ、老後が安心なら今の蓄えを使え需要は回復する、そうすれば供給も増えて経済は廻る、金の量が減ったわけでは無く廻っていないだけなのだから
東京新聞の投稿欄に毎週年代別で若い方の日がある、素晴らしい方が多く感心したり感激したりだが今回少し寂しい思いのする投稿が有った、15歳くらいの女性だったきがするが祖母と祖父に関しての投稿だった、概略は「祖母は今まで姑との確執、生活苦等で苦労をして来た、だからもう泣く事は無い強い女性だ、私もそうなりたい」と言うものだが例としてテレビドラマを見てどんな場面でも涙を流さない、しかし祖父はドラマを見て涙を流す、そうすると私(孫)に祖父を指差しながら「爺が又泣いているよ」と笑うと言う、しかし私も歳を経てくると確かに涙もろくなるがけっして苦労無く育ったわけではない、今では信じられない様な赤貧から会社を興し、この不況で自己破産を考える事もあるが自分の境遇で涙を流した事は無い、いや考えてみると子供の頃から学歴格差で悔し涙を流した16~17歳くらいから自らの境遇に涙した事は無い、妻もけっして裕福な生活をしてきた訳ではない、しかし自分の境遇で泣いた事は無いと言うし見たことも無い、しかしニュースやドラマでは良く2人で泣く、それは相手の立場に置き換えたとき自分の為ではなく「悔しいだろうな」と思うと自然に涙が出て来るのだ、我々にも娘が居る、30代半ばの時同じ様に孫に「ほら、又婆が泣いている、馬鹿じゃないの」と言った事がある、其のとき私は「お前と感受性が違うだけだ、お前が泣かないのは仕方ないが泣いているからと言って馬鹿扱いにするな」と言った事がある、彼女は未だ人の不幸を自らに置き換えて考える事が出来ないのだ、(この歳になってなんて幼い)と思った事もある、翻って投稿の祖母は大変な苦労をして来たのだろうが他人の不幸を自分の境遇に置き換えないで比べてしまうのだろう、(私のほうが不幸だった)と言うのは過ぎ去った過去を自ら否定する様な物ではないだろうか、いやそれより若い孫の「私も祖母の様に強い女性になりたい」と言う認識は一寸方向が違う気がしてならない、ドラマでもニュースでも不幸に有った場面には涙を流す人に育ってもらいたい物だ、それが本当にに強い人なのではないだろうか