梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

やれやれ

2015-02-24 15:04:19 | 雑記

少し前、女房が4泊で友人宅に手伝いに行った、我が家から事務所まではバスと電車で30~40分程度の距離であるが女房の居ない家に戻っても一人で食事をして片付けて寝て又出てくるのでは面倒なので事務所に泊まる事にした、事務所といってもワンルームマンションなのでマットと掛けるものがあれば事足りる。

朝早く出て7時過ぎに帰宅するのが日課だがそのまま会社に居れば実に楽である、ふと考えたが帰ると言うのは「家」に帰るのではなく待つ人が居るから帰るんだなと本当に当たり前の事を納得した、

女房が居ない自由を楽しんだと言う様な事ではないので特にどうと言うことではないのだが恐らく女房が先に逝ったとしたら(女房との約束でそうなっている)家に帰る事は余り無くなるかもしれないな、もっともそれまで働いているとしての話だが、仕事をしていなければそれこそ暇をもてあます事になるがそんな事が出来るほど蓄えも年金も無いのでそれで頃ではあるまいがそんな事を考える様な年齢になりつつあるのか、

今67、後15年位は生きるのか、15年位前を振り返るとホンの少し前のような気がするしどんどん1年が短くなってくるのであっという間かもしれないな、15で東京に出てきて結婚したのが36だったから一人暮らしより家族が出来た後の年数がやっと上回ったわけだが子供達が家庭を持って夫婦だけの暮らしが10年以上になる、あと何年か女房と二人の生活だろうが確かに居なくなったら寂しいんだろうなと思う、しかしその寂しさを女房に味合わせるなら自分が受け持った方がいいとも思う、子供たちに言わせれば「お父さんは大丈夫」だそうだがあまり大丈夫でもないような気もして来た、しかしこれだけは仕方が無いまさかイチニノサンで一緒に行くことなど出来る訳もないしそうかといって心中するほどの事でもない、

最近こんな事を思う事が時々あるが実際はそれど頃ではなく現状を生きるのに一杯なんだが女房は兄姉二人が、自分が残る姉二人のうち一人が擁護マンションで暮らす事になり少々認知症も出て来て身近になってきたせいもあるのだろう、まあ二人とも元気な内に好きな事を成るべく多くやっておこうか


夫婦別姓、家族の有り方

2015-02-19 10:32:47 | 雑記

夫婦別姓の話が又浮上してきた、夫婦と言う形態に「婚姻をしたらどちらか一方の姓を名乗る」と言う民法の規定にどんな不都合があるのかが理解できないのだ、結婚したら新たな戸籍が出来る、その時に戸籍上世帯主としてどちらかが登記され以下「妻」或いは「夫」子供たちが順次書かれてゆくのだがその際「姓」に関しては一つしか書かれていない、改変派は戸籍上2つの姓が列記されるという事を望んでいるのだろうと思うが何故その必要があるのかが解らない、

社会的に姓が変わる事でデメリットと言うものがどの位有るのかが具体的に理解出来ないのだ、少なくとも私の周りではそう言う話は聴かないし、ニュースの話題になっても不都合があると思っていると言う人は聴かなかった、と言う事はかなり少数派の意見ではないのだろうか、仕事で姓が変わるとやりにくいと言う人も居るがそれはそんな厳密な話ではないので大抵もとの姓名のまま通用しているし何の問題もない、

よく言う同窓会では学校の頃の姓名で呼び合って「今なんて苗字なの?」と言う程度だろう、確かに「どちらか一方の姓」を名乗らなければならないという合理的な理由は無いが今まで連綿と続いていた社会通念でありいわば文化の一端だと思う、これは日本に限ったわけではないだろうヨーロッパ社会でも略同じ様に「ハズバンドとワイフ」は同じファミリーネームが一般的だろう、

そしてこの問題に一番関係する「子供」の問題が出ていない、夫婦別姓になったら子供の苗字はどちらになるのだろうか?それを決めるのは誰なんだろうか?ある程度自分で判断できる年齢になったら改姓する権利は与えられるのだろうか、その方がよっぽど不都合な気がする、

学校や友達と遊んでいるときにどちらかの親が苗字が違う事が負担にならないと言い切れるのだろうか、其処までして別姓にこだわらなければならない理由が私にはわからない、結婚して子を成したら真っ先に子供の事を考える事が親としての責任ではないだろうか、


あふれ出るどころか乾いた雑巾を更に絞る

2015-02-16 17:32:14 | 雑記

アベノミクスは成功したか?失敗だったか?と言う記事が出ている、何を持って成功か失敗かと言うかで別れる処だろうが我々庶民レベルでは「税金負担が増えて、年金も減り各種補助も減る、円安で輸入品が高くなり生活費が増えている、所得は増えない」と言うのが実感だろう、経済的に「国家レベル」でも円安による貿易赤字は記録を更新し続けている、単純に此処からは「経済政策の失敗」としか言えないと思う。
「株価が上昇し富裕層と大手企業は大きく収益を上げている、先ずは川上が潤いそれがやがて川下に溢れて来る、川上が潤ったので成功だ、少し待てば皆潤う」と言う様な言い方をよく目にする、
しかし川上は株価は兎も角大手企業はずっと利益額を更新し続けて来た、国家間の経済指標も貿易黒字を独走してきたのだが大手企業はその黒字を全て「内部留保」として来た、この一事を見れば「川上が潤ったから川上に溢れて来る」事など有る訳はない事は明らかだ、ダムの容量を増やすだけで放流などする訳もない、
その頃から言われていた、「内部留保を吐き出せば日本の内需は上がる、内需があがれば為替や国際的な経済に左右されにくい日本が成り立つ」、「先ずは内部留保を吐き出せ」と言う意見はずっと無視されていた、大手企業が潤って、株を保有する個人が潤ってもそれは今迄の経済格差が広がるだけだろう、
内部留保を吐き出させるには強制力が必要だ、強制力を行使する必要が無いならとっくに流れ出て居る筈だ。ピケティが言う「資産課税」が一番公平でかつ迅速にできるだろうが恐らく経済的な法を整備するのは内部留保を抱え込んでいる企業層と其処からの献金で地位を維持している政治家、そして個人的経済格差の頂点に世襲によって権力化している高級官僚達だ、望む事も空しい。
「籠に乗る人担ぐ人、その又草鞋を作る人」と言う言い方が有る、元々の意味とは違うが国はこれらを全て抱合している、このまま「乗る人」だけの理論で社会を進めると飯を食えなくなった駕籠かきは籠を担ぐ事が出来なくなる、そうなったら「籠には乗れない」と言う事を経済界も政治家も官僚も理解する事が出来ないのが愚かだと思う

 

 


痩せ我慢

2015-02-11 14:11:00 | 雑記

先月67歳になった、歳を聞かれると「ダブルシックス」と答えていたがそれも出来なくなったのが残念だ、この歳になると一年はだんだん短くなる、だからと言って体の衰えが進まなくなったかと言うとそんな事は無くやはり彼方此方ガタが着始めている事は間違い無い様だ、まわりは歳より若く見えると言ってくれる、

先月息子が孫を連れて顔を見せた、その時に嫁さんが「お父さんは結婚したときと殆ど変わらない」とリップサービスをしてくれた(因みに結婚したのは10年前である)、会話の流れで「有難う、それは姿勢のせいだろう」と話したがこれは本音である、歳を取るとどうしてもあちこちが痛くなってくる、前屈みになって腰を曲げて歩くと見るからに老人に見える、もっとも今の若者の多くは背中を丸めて首を前に突き出した格好で歩いている連中が多い、しかし10代20代は姿勢の悪い奴ですむが40代を過ぎるとそれはそのまま「くたびれた中年」になり60代にも成ればそのまま老人である、平均寿命は80代、まだまだであるにもかかわらずだ、皺や髪の色、薄くなる髪はどうしようもないが服装の乱れや不潔は同じ老人でも「みっともない」老人になる、そして立ち居振る舞いと姿勢だ、腰を伸ばし背筋を立てて胸をはり軽くあごを引いて真っ直ぐ前を見て歩く、

どうしてもこの歳になると足が上がっていない事がある、つま先をあげていないとほんの少しの段差でも躓いてしまう、意識してつま先をあげていても靴底が地面を擦る、その度に膝を引き上げる事を再確認し、出来るだけ「颯爽」と歩く、常に意識し更に一日少しでも良いから軽い運動をするように心がけている、

実のところを言うと通勤の途中でも足が痛いことがある、「颯爽と」するにはかなり努力が要る、しかし其処は「痩せ我慢」である、江戸時代に「伊達の薄着」と言う言葉があった、江戸っ子の粋だそうだがどこかそれに通じるものがある、けっして「粋がっている」のではなく「かっこよく歳を取る」のは高齢者社会のスタイル、自分の「生き方」だと努力する事にしている。


恥の日本人、日本人の恥

2015-02-07 12:50:30 | 雑記

ダイアモンドの記事を見た、ポル・ポト政権時代に起きた100万人~200万人に上る虐殺の遺産が今国営歴史館として一般公開されていると言う、人間はなぜ此処まで残虐になれるのか、と言う問いかけに追い詰められて殺さなければ殺されると言う心理からと言う事も書かれていた、生き残った加害者に聞くと実行者は「上の命令に従っただけだ」とち言い命令をしたと思われる者達は「殺せと言った事はない」と言う、
命令されたから無抵抗の者を虐殺した、幼児は近くの木の幹に頭をたたきつけて殺し、泣き叫ぶ母親を多くの兵士が凌辱した上で喉を掻き切って殺害し、生き残っている者に埋めさせたと言う、筆者が言う様に「我々人間は其処まで残虐になれるのか」と思うと同時に「恐らく人間しかやらないだろうな」と思う、猫が傷ついた獲物をいたぶると言うがあれは獲物を捕る訓練だ、なんのメリットも無しに殺すと言う事は先ずない、さらに言うなら同種間での殺戮はあり得ない筈だ、テリトリー争いや繁殖のための争いも殺害はしない、
他の種を殺すのは食餌としての行為だ、蓄えられるようになって人間は種の存続と言う行為から逸脱しているのかも知れない、
筆者はその筆でこう書いている「カンボジア人は同じ国民が犯した負の遺産を国の責任を持って国内外に開示し反省の礎としている、ドイツ人もアウシュビッツを国で管理運営し広く公開し自らの戒めとし2度と起きない事を誓っている、しかし我が国は『南京問題も慰安婦問題も証拠が無いから無かった、過去に認めた政府もあったが反証が見つかったから謝罪はおかしい』と言っているが国民として恥ずかしいのではないか」」と書いていた、
確かにアウシュビッツやカンボジアの様に明らかな形骸が有る訳でもないが恐らく匿名で今生き残っている人々に言葉を発して貰えば多くの状況は解るだろう、無論名前を伏せての発言には信頼性が無いとも言えるが自己の中で耐え難い物である事は容易に想像できる、多くの証言が集まれば当然整合性や集合性が出て来る筈だ、
人間は反省できる生き物だと思う、それが社会性を高めて来た筈だ、事実を見つめて其処から反省し将来の礎とする事は大事な事だ、それを決して「自虐」とは言わない、
同筆で「今出ている多くの自画自賛本を「何故日本人はアジアで此れだけ好かれるのか?」「此れだけ優秀な日本人」云々は日本人を個人に置き換えてみたら解る、「なぜ私はアジアで此れだけ好かれるのか?」「此れだけ優秀な私」等々、こんな事を書いている人が居たら絶対に嫌われるだろうし、こんな本は読む奴も居ない、」と書かれていたが正しくその通り、少し冷静に考えればあれらの本は余りに恥ずかしい、先の大戦を起こした責任は我が日本にあり、その時の政府の考え方、報道の在り方が現在に似通っていると言う、反省だけなら猿でもできる、反省も出来なければ猿にも劣る、有る時期日本文化は「恥の文化」と書かれた事が有った、しかし此処数十年の日本文化は「文化の恥」に成り下がった気がする