梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

センブリとカイニンソウ

2024-10-26 11:28:09 | 昭和の頃
昭和30年代の小学校では検便と言うやつが定期的に有った
回虫検査とも言っていたが各自マッチ棒の先位の大便をマッチ箱に入れて学校に持って行く
検査の結果がどのくらいの期間で戻って来たか覚えていないが結果によって虫下しと言うやつを強制的に呑まされる
大抵飲む羽目になっていたので殆どの児童から回虫の卵が見つかるのだろう
この時処方される薬と言うの「カイニンソウ」と言う飲み薬で、ドロドロの煎じ薬だった
調べてみたら「海人草」と言う海草の一種らしいが当時はごく一般的なもので学校で施薬する位だったから厚生省認可薬だったのだろう
兎に角、臭い、不味い、飲みにくいと言う三拍子そろったやつだったが先生監視のもと湯飲みで大量に飲まされた
かなりの児童が排便時に白い回虫が出たと言っていたので効き目はあったのだろう(自分は出なかった記憶が有る)
当時のトイレはいわゆる日本橋(二本の板を肥え桶の上に渡しただけのスタイルである)だからよく観察できるのである
病院なんぞは町に出ても総合病院は掛川が市政になった後で出来た市立病院だけで個人病院は市内にすら内科が幾つかと歯医者が一軒しかない
薬局が有ったかどうか覚えていないが街から4里も離れた山奥にある訳もなく常備薬は置き薬だった、
俗にいう「富山の薬売り」的な置き薬屋が自転車の後ろに付けた柳行李に入れて年に何回かまわって来るのである
使っただけ追加してその分だけ支払うと言う方式で子供がいる家庭には紙風船を置いて行ったが其れが楽しみだった
風邪に「とんぷく」解熱剤は「みみず一風散」と「赤玉」と言う腹痛薬兼痛み止め、大抵こんなもんで何でも対処できた、と言うかするしかない
未だ置き薬が無い頃からの民間治療は「せんぶり」である
食欲不振とか虚弱体質の対応薬として特に女性が服用していたが調べるとちゃんとした漢方薬の様だ
これが苦い、筆舌に尽くしがたいと言う位苦い、それが効用だと日本薬学会に書いてあったがその部分は子供の罰として使われた記憶が有る、
まあ、我が家だけだったかもしれないが何しろ60年以上昔の話である、今更「あの頃はこういう事もあったよな」と記憶のすり合わせが出来る近しい人はほゞ鬼籍に入ってしまった
昭和は遠くなりにけり、令和生まれのZ世代なくとも自分が考えてもほぼ江戸時代と変わらない印象だ

親父の話の続き

2024-10-16 09:42:58 | 昭和の頃
その頃家には掛け時計が有った、
昭和頃のドラマや昭和民家館でよく見る奴である
8角形の文字盤廻りと振り子の見えるガラスのはまった茶色の奴でちょっとくすんだベージュの文字盤に中の抜けた長針と短針があった事は覚えているが秒針は無かった気がする、
発条は時計用と時報用の2つがあり、向かって右側が時計用、左側が時報用だったがどういう訳か右の発条は反時計廻りに、左の発条は時計廻りにまくようになっていた、
小学校に上がった頃から毎日発条をまくのが自分の仕事になっていたが嬉々としてやっていたのではないかと思う
親父は毎年一度時計を分解掃除をする、明るい縁先に新聞紙を敷いて針を外し、文字盤を取って中のユニットを出すとすべてのネジを外してバラバラになった部品をブラシを使って灯油で丹念に洗うと乾燥させて再度組み立てて機械油をさして文字盤と針を戻す、
当時油さしと言っていた物は今のプラスチックとは違いブリキ製で半球形をしていてそこの部分を押すとぽこぽっこと音のする奴だった、
今考えれば時計ユニットなんかは本当に単純な構造だからさして大した作業ではないのだが未就学児の自分には(お父さんは凄い!)と感心するには充分だった
真鍮の厚みのある振り子の下には調整ネジが着いていてそれを廻す事で時計の遅速を調整する、
「振り子の振幅時間は長さで決まっていてふり幅が変わっても一定」だと言う事を教えてくれたのも親父だった
田舎の家にはないノギスやマイクロメーターが道具箱に入っていて学校の工具より何かずっと高級な道具に見えたのも当時親父はすごかった
手先は器用で篠竹で竹笛をこさえてくれたり、破竹(当時村ではハチコウと言っていたが)で弓を作ってくれたり、樫の木で木刀を作ってくれた
しかし、声も顔も覚えていない、薄情な息子である、ただただ、生きるのに忙しかったのだと言うのは良い訳だろうな、
普通は覚えているんだろうがまるで古いフィルムを見ているように白黒の思いでしか残っていない
今になって思い起こすのは若しかしたら老人性痴呆症、逆行性健忘症か?毎日昨日喰ったものを日記に記録していると時々思い出せない事もある、
何とかしなきゃ拙いぞ!

親父の話をしてみよう

2024-10-15 14:44:41 | 昭和の頃
私は親父の事をあまりしらない、或いは解らない、“殆ど”と言っていい程だが人生で一番遅くまで一緒に生活したのは親父だった
一番遅くまで一緒に暮らしたと言っても一番長い時間を共にしていたと言う事ではない
物心の付くころからお袋が癌で入院するころまで度々出稼ぎをしていたので生活の中にあまりいなかった
親父も私の生まれ育った家で生まれたらしいがやはり赤貧だった様だ、親父とそういう話をしたことが無いので姉と兄から聞いた話の知識である
親父の兄弟は姉が一人と兄と弟がいたらしいが若しかしたら兄二人だったかもしれない、親父は親戚付き合いと言うのが嫌いだった、
市内に一人と桜木と言う所に一人の叔父さんが居たが殆ど行き来は無かった、伯母さんに関してはどこに嫁いでいたのかすら、まったっく知らない
親父が東京に就職した時期に前後してこの家は絶えた、
軍需工場の中島飛行機に就職して戦時下の事、そこそこの稼ぎをしていたらしいがそのせいで兄弟とは疎遠になったらしい、
敗戦で無一文になって親父は後添えだったお袋と二人の姉を伴って廃墟に掘立て小屋を建ててこの村に戻って来た、
叔父二人と会ったのはお袋の葬式時意外に記憶はない、伯母が来ていたかどうかも定かではない
気位の高い偏屈な親父だったのは後から姉二人から聞いた、思い出してみると確かにしょっちゅう村の人と衝突していた記憶もある
農村で田畑を持たない家は一段も二段も地位が低い、その親父が偉そうに理屈をこねる、
農家の親父は理屈では親父には勝てなかったがその分怒りや顰蹙は十分に残る、晩飯で親の怒りは子供の怒りとなって学校で子供に廻って来る
子供には遠慮会釈は無い、残酷である、
村の祭りは甘酒とお煮しめ、子供におひねりの僅かな菓子が配られる、しかし、祭りは村人の寄付で賄われている、煮炊きや甘酒の支度にはお袋も出ていたが生活保護家庭の我が家は免除されていたのだが同級生は私に向かって「寄付も出さんで菓子だけ喰うのか」と祭りに来た私を面罵した、
お袋は私から菓子を取り上げて役員に返した、村のかみさんたちは「そんな事を気にするな」と言ってくれたが私は手にすることは出来なかった
貧しいと言う事は絶対的な貧しさと相対的な貧しさがある、子供にとっての貧しさは自分の家の貧しさは友人より貧しいと言う事が自分の価値迄見下げられんだと言う事がとても悔しかった、
お袋は「お父ちゃんに言っちゃだめだよ、絶対に怒鳴り込むんだから」と言っていた、その事が更に立場を面倒にすることは更に私に戻って来る
中学1年生でお袋が死んで姉は家を出て行った、親父と共同生活の様な暮らしを2年して東京に出て来たが二人だけの二年間も含めて親父の顔が思い出せない
親父の顔はいつとったか解らないがモノクロも写真の顔だけである、
かみさんからみると私の家族関係に関する考え方と言うものが「かなりおかしい」らしいがこんな所にあるのかもしれない、
私の子供たちは女房と一緒になった時に私の子供になったが未だに時々思うのだ(子供たちは本当に俺を父親として認めてくれているんだろうか)と
しかしもしかしたらこんな事を考えていること自体子供達に対する裏切りなのかもしれない、

彼岸花 曼殊沙華の思い出

2024-10-01 15:24:26 | 昭和の頃
赤い花なら曼珠沙華(まんじゅしゃげ) 阿蘭陀(おらんだ)屋敷に雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
 未練な出船の ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る 
彼岸花があちこちに咲き誇っている、団地の中庭にも今年は彼岸花が数か所赤い花と白い花を咲かせている
この歌の時代の「曼殊沙華」は毒々しい程の真っ赤な花でその華やかさと花茎を折ると出る白い液に毒が有ると言われていたので白人との混血だったお春の美貌と相まってそんな言われ方をしたのではないかと思う
今の彼岸花は白いのと黄色のもあってそれなりに混在すると趣が違っていい眺めだ、但しこの2色はどうも似ているが違う種の様だ
ずっと昔、まだ自分が未就学児のころ、母親に和裁を習いに来ていた村の娘たちが青年団で村芝居をするからと招待されて真っ暗な山道を母親の背中に負われて見に言った記憶がある
未舗装どころか雨で洗われてむき出しになった岩だらけの道を今行ってみると3km近く有るであろう距離を提灯も持たずに見に行った
川と言うより峡谷と言っていいような急流を土橋で超えるとその川に沿って左に折れた所に神社が有って小さいながらも神楽殿がしつらえてあり、その前に30人程度の村人が蓆を敷いて座っていた、
電灯は有るがこの時代の照明はカーバイトランプである、そう言えばその頃の祭りの屋台はみんなカーバイトランプだった、あのアセチレンガスの臭いが祭りの匂いだった
村芝居の出し物が「じゃがたらお春」だったが内容がそうだったのかは当然覚えていない、覚えているのがこの曲だったのだ
返りの道か、帰ってからか母親がジャタタラお春の悲しい運命の話をきいて、その時にジャガタラ芋の名前の由来とジャカルタと言う国名を覚えた
毎年、ヒガンバナを見る度に「赤い花なら曼殊沙華、オランダ屋敷に雨が降る」と言う歌を思い出す

夫婦善哉は人生の選択肢から無くなったか

2024-08-21 11:46:20 | 昭和の頃
東京新聞の朝刊に今どきの若者が抱く結婚観が乗っていた
26歳の教員で苦学の末大学を下り、無事教師となってある程度安定した収入もあり、特に将来には不安はない
彼女もいて結婚もしたいと思っている、子供も何人かほしいと考えていると言う
しかし子供の養育費、特に学校に掛かる費用を調べると小中学で凡そ480万円、高校に掛かる費用も同じくらいかかる
大学にまで行かせるとなると教育費だけで14~1500万円が掛かりそうだ
しかし、その為に自分たちの楽しみを犠牲にはしたくないと考えているので「結婚するまでに二人で1千万円が出来たら」と言っている様だ
この青年が今の平均的な若者の姿なんだろうか、
確かに堅実的な考えでそれが一番良いのだろうがどうも我々昭和演歌の時代の者にとってはなんかな~と言う感じが否めない、(私だけかもしれないが)
夫婦善哉と言う流行歌が有る、何人か歌っているが自分は村田英雄氏の声でなじんだ、
着いてこいとは言わぬのに
黙って後からついてきた
俺がはたちでおまえが19
下げた手鍋のその中にゃ、
明日の飯さえ、無かったな
お前

九尺二間が振り出しで
胸つき八丁の道ばかり

昭和時代庶民の多くはこんな夫婦が数多くいた、
好景気に沸く昭和の30年代から50年代まで中学を卒業し集団就職で上京し、職場で知り合った恋人たちが歌の歌詞の様な
6畳一間か精々2間に居を構え、8時から働いて、5時に退社するとままごとみたいな生活を嬉々として営んでいた
学生運動が落ち着いた頃学生たちは「同棲時代」とはやされてもっと狭い4畳半で生活を始める
「神田川」の歌詞の時代だ、
そのまま関係を解消し、現実を受け入れて別々に生活を送っていったが
今日の記事の様に結婚生活の設計をする様な若者はあまり見かけなかった気がする、好きなら勢いである
尤も当然ながら少女の頃は「白馬に乗った王子様」を夢み、社会に出る時期には高学歴・高収入・高身長と言う
いわゆる「三高」を夢み、やがて売れ残りを負け組と認識して身丈に会った相手と収まるのが現実だ
多分、今の若者も同じような所に落ち着くんだろうが最近は「結婚」が人生の条件ではなくなって来た様だ
ポジティブであれネガティブで有れ、ね
しかし、自分には夫婦善哉に憧れ、夫婦生活にくたびれたおっさんの方が親しみがわくのは自分だけか?