佐世保で15歳の少女が同じ15歳の少女をハンマーで撲殺し、死体を解体したと言う事件が起きた、加害者の少女は淡々と「人を殺したかった、解剖してみたかった」と言っているらしい、反省も謝罪もないと言う、
「人を殺してみたかった」と言う台詞は最近何度も聞くようになった、いくら考えても理解が出来ない、脱法不ドラッグをするやからの考えている事も理解出来ないが全くシンプルに「人を殺してみたかった」と言う心持が解らない、「殺してみたかったから同級生の友人を殺す」と言うこと以前に「殺してみたい」と言うこと自体解らない、世界中でこういう事件はどの位起きているのか解らないが少なくとも日本では余り聞か無かったと思う、殺人は憎しみが動機の事が殆どだろうと思っていた、あるいは殺人は手段で目的は別にあると思っていた、金が欲しい、恋人を取られた、侮辱された、等々それらを解消する手段として殺すと言う方法をとる、無論それ自体言語道断なのだが最近は「世の中が嫌になった、自殺する勇気が無い」或いは「世間の奴等に自分を思い知らせてやる」と言った殺人動機になる事も此処数十年でいくつか起きている、
生きる事が大変だからと言うならそれだけ命の尊さに思い至るのではないかと思うのだが、唯自分だけ死ぬのは悔しいから幸せそうなやつらを道連れに死ぬと言う事らしい、何時の頃からこんなに日本人は命を軽んずるようになったのだろう、戦後日本は高度経済発達を経てそこそこの暮らしを得る替わりに今まで培ってきた日本社会と言う精神システムを失ってしまった、思いはせてみるとどうも「家」と言う社会性を壊した頃から大きく変貌してきた気がする、敗戦直後までは「家」と言う単位は連綿と続いて来た、このシステムが高度成長とともに失われ、その時期に合わせる様に育児の放棄、老々介護から孤独死、そして命の軽視が増えてきた気がする、無論理屈ではない、あくまで統計の話だが、育児ノイローゼ、孤独死どちらも3世代同居家族には起き得ないはずである、
スープの冷めない距離が理想的だ、と言う諺はヨーロッパの物だが日本では同じ家屋の中で連綿と家族を繋いできた、3.11に流行った「絆」という言葉もわざわざ言い表す必要は無いくらい当たり前の事だった、しかし経済の急成長に伴って親子が互いに慈しみ会って暮らすという事の大切さよりストレスの回避を取った結果社会性最小単位である家族と言う物を学ぶ機会を失っていったのでは無いだろうか、
都市に集中する人口は劣悪な住環境と過疎化を招いた、しかしこれ等の問題は避けては通れない問題だろう、生まれた時から年老いた祖母祖父と暮らし、自分の両親がその両親に接する事をみて、深い愛情で繫がっている事こそ「絆」でありそれは決して墨痕鮮やかに書かれた文字ではなく心の基本にしっかり根付いてくるだろう、
老人福祉、教育補助の予算より年老いた両親と同じ家で寝食をともにする事の出来る住宅を供給する事が重要な政策ではないだろうか