梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

幾ら大変でも生きてこそ

2012-09-30 16:25:11 | 雑記
自殺者が増えている、年間12万人近くが自殺すると言う、つい最近虐めからの自殺も随分増えた、
逆にこの年代の若者が親を殺したりする、数年前には隣家の主婦を殺した事もある
ホームレスを遊びの延長線で殺す、嘘かまことか虐めの自殺者が出た時、虐めた少年がネットに「やっと死んだよ」と書き込んだと言う話も出た、余りに命を軽んじすぎている。
失業者が増えて生活苦からの自殺者も多くなっているらしい、経済格差が大きくなって働く手立ても無く住処を失って更に困窮してゆく、仕事も無く住む家もなく食事もまともに取れず将来の希望を失ってしまえば生きる気力もうせるのも充分解る、
数年前からは「年越しテント村」が出来て炊き出しでやっと年を越す人々が多く出ている、
しかし一方で林業や漁業では就業する人間が極端に減ってしまい継続が難しい状況にある、
林業地域で職を失った人達に声を掛け衣食住の用意もして徐々に仕事を覚えて貰いたいと期待して居たのだが略全員が3ヶ月以内に辞めてしまって又都会のホームレスに戻って行った。
林業自体大変な仕事である事は確かだが営林業の人達は慣れているとはいえ高齢の体で働いているのだ、「とても体が持たない」と言うレベルではないだろう、放送を見ていると中学生が大人に混じって働いているのだからそんな無理な条件で話しているわけでは有るまい、
当時石原都知事と麻生首相の二人が「働く気が有れば仕事は無いわけではないのではないか」と発言して物議をかもした事もあった、両者とも「貧しい」と言う事と正反対の人間だからこの反発は当然だが林業の件だけを取れば当たらずとも遠からじと言う事も言えるだろう、
女房が65歳になって区の健康診断が来て問診書が入っていた、その中の項目に「自分が世の中の役に立っていないと感じた事は有るか」と言う質問が有ったが女房と「一体何を言いたいんだろう?」と話した、
どうもこの「自分が世の中の役に立っていないから生きていても仕方ない」と言った理由で自殺する高齢者が居ると言う事らしいが誰が言い出したか知らないが我々の年代でこんな事を考える輩が居るとすれば余りにも幸せな生涯を送って来た連中だろう、
現在団塊の世代と言われる年代では無事勤め終えた人は「今まで充分に家族の為(決して世の中の為ではない)に頑張ったのだから今後はゆっくりとしよう」と思うし、その他の人は「働かなければ飯は喰え無い、今もし体が壊れたら直ぐに喰うに困る」と言うレベルである、
決して「今からは世の為人の為に自らの存在価値を示して」生きるなんて人種は先ず居まい。
もしそんな理由で自殺する人間が多かったならこんな下らない論を考え出した学者先生の大きな罪だろう、「自分が役に立っていないから存在意義が無い」などと考えるのは金持ちの哲学遊びに過ぎない、世の中に役に立つかどうかは世の中が決める事で一番大事なのは生きるという行為そのものでそれには理由などは全く要らない、
生を受けたら生を全うし新たな生命を育んで未来に渡すのが人間の義務だし生命体はその「本能」があるから地球と言う天文学的にも「奇跡の星」は維持されて来た、
生きる事を絶対的な本能として全うして行かなければならないし人間社会全体で維持していかなければならない事は今まで当たり前に継続して来た、この半世紀で其れが崩れかかっている
何とかしなければならない

「反原子力規制委員会」だな

2012-09-28 17:55:15 | 雑記
原子力規制委員会の田中俊一と言う方が記者会見に赤旗の会見を拒否したと言う、此れに付いての抗議にたいして最初「特定の信条がある報道機関は如何なものか」と答えたという、
「信条が規制委員会に一致していなければスポイルすると言うのはおかしい」と言う抗議に言を変えて「赤旗は政党の機関紙だから一般として認めない」と言う、
赤旗は確かに日本共産党の発行する新聞だが党員以外には配布しないと言うものではない、
野党の機関紙と判断したら排斥すると言うのは最初から他の意見を聞く気が無い所か説明する気もないと言う事だ。
大体その名称が示すとおり「原子力規制委員会」と言うのは「核エネルギー」の方向性を国として規制をするべき機関として発足したのではないのか、
国民の多くが、殆どが「核エネルギーからの脱却」と言う方向を向いている、しかし経済界と特定の省庁或いは官僚が「核の温存」若しくは更に拡充をもくろんでいる、
「核エネルギーは安全だがこの度の事故をかんがみて安全に万全を期す為に」と継続する為に設置した機関だろう、
現在運転しているのは僅かに一基だが再開をする為にはこの機関が有るから大丈夫だと言う話だったのだが此れでは全く逆な方向を向いているとしかいえない。
あの機関の運営達は恐らく「”反原子力”規制委員会」と言う考えによって運営しているのだろう
報道規制ととても三権分立とは思えない勝手な法改正と法解釈、此れを画策するのが官僚なら其れは違う、官僚の力は飽くまで事務方としての力で計算機が意思を持っては答えは正確には出ない、
国民主権の政治を取り返す方法は選挙しかないのだが官僚機構にメスを入れる方法が無いのが残念で成らない、

やっと初秋かな

2012-09-27 15:44:13 | 雑記
数日前からやっとあの酷い暑さが無くなって来た、もう直ぐ10月になろうというのについ一週間前まで真夏日が続いていたのだが此れでやっと初秋を迎える事が出来そうだ、
最近の暑さが堪えるのは歳のせいかそれとも暑さが変ったのか、元々寒さより暑さに弱いたちだがそれでも多少は暑さを楽しむ余裕があった、今では楽しむどころではない。
夕方になるとエアコンなど無い焼き鳥屋で燻されながら生ビールを飲んだりホッピーを呑んだりした物だが今じゃ取敢えず家に帰ってシャワーを浴びたら出て行く元気は無い、
もっとも当時は家にクーラーなんかは無いので外で飲んでも家に居ても暑いことは暑いのでそのせいも有る。
家の近くに昔ながらにガラス戸を外した焼き鳥屋が有って道路にはみ出してテーブルを出して大勢の連中が談笑しながら飲んでいるのでやはり時分がだらしなくなったのかも知れない、
昭和の頃は夏になるとビルの屋上に必ずビアガーデンが出来る、デパートの屋上だったり駅ビルの上だったりだが駅前には必ず何軒か出来る、ビールは大中小のジョッキと抓みはハム、ソーセージ、焼き鳥、ピーナツとポテトチップスにチーズ等、週末ともなればサラリーマンの多くが帰宅前に引っかかってゆく、
何時頃からかバンドが入る様になり最初の頃定番はハワイアンだった、曲の雰囲気とバンドの服装も夏らしく合っていたがベンチャーズの曲が流行りだした後はエレキバンドと言う物に変る、
更に若い女性のダンサーが入ると言うガーデンも現われたりして一時はかなり盛況だったのだが何時の間にか殆ど見なくなった、ここ数年新聞やテレビで「今夏のビアガーデン開店始まる」と言った記事は見るのだが実際に見かける事は殆ど無い、まあ自分の移動半径があまり大きくないので都心などでは有るのかも知れない。
あの頃のビアガーデンは駅ビルやデパート等の屋上が多くトイレが屋上階にある事は少なくフロアを下がらないとトイレが無いのだが呑んでいる物が生ビールだから頻度が多い、
佳境に入る時間には兎に角並ぶ事が多かった、直ぐ下の階位しか使えないので数も大してないのでかなり苦労するのだがそれも笑い話で毎週の様に言った物だった、
場所が何しろ屋上なので結構風がある、其れが気持ち良いのだがつまみにとったポテトチップやアタリメ等の乾き物は篭か皿にペーパーを敷いて出て来るのでちょっと油断すると直ぐ飛んで行ってしまう、其れを押さえながら飲むのもそれなりに楽しかった、
最盛期に洗足池のレストハウスの屋上に小さなビアガーデンが出来たことが有る、貸しボートをやっている店で屋上に上がると池が見渡せて実に気分の良いロケーションだった、
夕陽が落ちてあたりが暗くなると池の向い側にある公園の街灯が水面に反射してロケーションは最高なのだが何しろ池の上である、兎に角蚊がすごい、自前で蚊取り線香を持ってゆかないととても夏の露出では落ち着いて呑む雰囲気ではなく結局数年で止めてしまった、
今じゃエアコンの効いた店で飲むのが一番になったな

自慢じゃないが、

2012-09-25 18:09:10 | 雑記
病気自慢、不幸自慢、貧乏自慢など非常にマイナーな自慢をする人が居る、高齢者が集まると大抵足が痛いとか腰が、とか血糖値が、血圧がと言う話題になり同病相哀れむと言った話題から仕舞いには「彼方は良いわよ、私なんか」と病気が重いことや色々大変な事がエスカレートする、あれは一体なんなんだ、
病気の方は悲惨になってくるし不幸の方も洒落にならない様な話も有るが「貧乏自慢」の方は結構笑い話になるケースが多い、まあ不幸自慢と組合わさるとちょっと暗い話になるし此れに病気自慢までくっつくと会話が立ち直らない位に暗くなる、が「いや~昔は酷かったね」と笑って話されると(試しに俺もやってみたかったかな?)見たいな話もある。
貧乏は自慢じゃないが筋金入りだった、親が貧乏だと子供が貧乏なのは大人になるまでは当たり前である、大人になって考えると何であそこまで貧乏だったのか疑問も有るがその頃は単純に「内は貧乏なんだ」と言うのがごく普通に自己認識だった、その中には(何故?)と言う疑問は最初から最後まで無かった、
村の貧乏ランクは恐らく2番目だったんじゃ無いかと思うが若しかしたらトップだったかも知れない。
我が家は親父の手作りの家だったが一畳の土間と3畳の板の間、8畳の和室と6畳の藁敷きの部屋に土間が有った、一級下級生のその家は4畳半一間に流しの付いただけの一軒家で其処に親子4人が住んでいた、急な山肌に貼り付ける様に建っていたその家の入り口まではすれ違う事の出来ない道で四畳半に直接入る構造だった、
しかし我が家の食生活と言えば昭和29年の小学校では珍しい「欠食児童」だった、未だ給食が無い時代だから弁当が無いと昼休みに教室に居るのは居こごちが良くないので時分だけ校舎の裏に出ていた記憶がある。
定かではないが一年生は未だ藁草履だったと思う、後半か二年生になった年にゴム靴と言うのを買ってもらった、赤いゴム製で型押しで作った物で全てゴムだから蒸れる事は凄い、
冬になっても履き古した足袋だった、靴下と言う物を履いたのは4蚊等年生位だったろう、
「おしん」では大根飯だったが我が家は芋飯である、取敢えず多少でも余裕のある時は麦飯で押し麦と言う平べったい真ん中に黒い筋のある麦を入れる、此れで私は健康になったのだ、
麦が無くなると時々サツマイモのサイコロに切った物が混ざる、徐々に芋の割合が増えてきて最終的には100%芋になる、要するにふかした芋だけである。
全体産まれ育った村は質素で(と言うより貧しくて)万屋が5kmに一軒ずつ程度の所だから当然魚屋とか肉屋は無い、無論八百屋は商売にはならないから最初から無い。
私は村を離れるまでに家で食べた肉は卵を産まなくなった鶏か飼って居たウサギ、近くの鉄砲撃ち(本職は農業だから誰も猟師とは言わない)が獲って来たイノシシか山鳥だった、
魚は味噌漬けの鯖か鮪の切り身、そして秋になると取れすぎた秋刀魚をトラックに満載して売りに来た時にのみ尾頭付きが出る、雑巾バケツにスコップで山盛りに入れて50円程度で売るので大変な量になるが冷蔵庫など村の店ですら氷式である、
琺瑯引きのパレットに交互に並べ塩を撒いて重ねておく、こうなると2週間程度は朝晩と秋刀魚になる、野菜は自前だが調味料は買わなくちゃならない、お袋が「どう言うわけか無くなる時は味噌から醤油から皆無くなる」と言っていたが自分でやって見ると良く解る、全て代用するから当たり前である。そんな生活を15歳まで続けた、12歳からはお袋が居なくなったので夕飯の支度やら材料やら時分で調達するのは良い勉強になった。
考えてみても其れが大変だったと言う意識は全く無く良い思い出でしかないのは得な性格に生んでくれたお袋に感謝するべきなんだろうな

領土問題:腫れ物に触った

2012-09-24 15:59:22 | 雑記
中国国内で反日運動が燃え上がっている、切っ掛けになったのは政府の行った「尖閣列島国有化」らしい、このこと自体は実に愚かなことだとは思う、領土問題はデリケートな問題で歴史的にも明らかな軍事的な占有併呑でもない限り難しい、特に直接的な経済的価値でもない限り緊急避難か水場程度の認識で永年過ごして来たのだ、
今抱えている三ヶ所の領土問題の中でも中国は一番紳士的だと言える、竹島も北方四島も実力行使で建造物どころか住民を送り込んでいる、
しかし尖閣に関して中国は「歴史的に間違いなく我が国の領土である」と言っているが実際に中国民が上陸する事も許可せず国民の反日感情を一方で煽っても同時に規制もしている。
いきり立つ国民を説得している後から石を投げるような事は愚かだとしか言えまい、
唯中国の反応も言っていることに矛盾がある、本当に「尖閣は昔も今も将来も中国の領土だ、勝手に領有を宣言している日本には何の権利も無い」と言うのならその何の権利も無い日本国内で誰の所有だと言っても全く無関係な話だろう、
日本が海外に「我が国の領土である」と発言する事に「其れは違う」と言うのなら充分解る(そうだというのではない、論理的な話である)
個人所有だった尖閣列島を日本国政府が買上げて国有地になったとしても「認めていない土地」だったら関係ないと思うのだが此れを持って日本をスポイルすると言うのは実におかしな話だ、
国有地になったら其処に何処かの省庁の建物が建つわけでもない、石原都知事が言う「緊急避難用の港湾施設」も作るわけでもない、実質何も変らないのだ、
穿った言い方をすれば個人が所有していても何も出来ず税金だけ掛かっているし所有に対して強い意欲がある訳でないなら気の毒だから国の名義にした、とも言える、
政府もその程度に考えて「都知事に渡したら余計にややこしくなるから」と言った程度ではなかったか、その直前に首脳同士が立ち話でも会っているのだからその程度の前話くらい出来なかったのだろうか、争いは双方に何の利益も生まない、愛国は自国を愛すると言う事で他国を憎むと言う事では有るまい