梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

シロとミー

2014-03-30 16:10:21 | 雑記
その頃、隣の家にも白い猫が居た、我が家のタマとどちらが早かったのかよく覚えていないが遊んだ記憶はどちらかと言うと此方のシロ(名前がそのまま”シロ“だった)の方が多かった気がする、
左右の眼の色が銀色と金色で真っ白なので結構美人だったと思うのだが飼い主が殆どかまわないのでいつも灰色をしていた、正しく灰色である理由は有ってその頃お勝手は竈で煮たきをするので火を落としても竈の下に残った灰には埋れ火が暫く残っている、寒い季節は大抵この中で猫はうずくまって暖をとる、町と違って家を出れば土と草である、濡れた体に藁煤がしっかり付いてしまうのでとても真っ白と言うわけにはいかない、
時折その埋れ火が猫の毛に燃え移る事も有り驚いた猫が縁の下に逃げ込んでボヤになった事もあるので気をつけているのだが水を掛けるわけにもいかないので乾燥した冬には結構神経を使っていた、
田舎の事で隣の家まで結構距離があるが略半日位は我が家に来ていた、食事は隣家に用意しているので其処で済ませるが此方の食事時間には必ず顔を出してテーブルの脇で催促をする、面白い猫で試しにと色んな物を食わせると結構何でも食べる、試しに沢庵を上げたが躊躇いもせず食べてしまって「にゃ~ん」と催促をされた事がある、
おとなしいというか、横着と言うか何をしても殆ど抵抗しない前足を持って立ち歩きなどしょっちゅうで後足を持って耕運機もさせるし、首に巻いて襟巻にしたり何をしても逃げるわけでもない、
後ろから力一杯抱きしめると大きく口をあけてギャッと言うような声を上げるのだがそれでも逃げもしないで膝に丸まって居るような猫だった、
叩いたりする様なことはしなかったので遊びだと解って居たのかも知れない、お見舞いにもらった果物の入って居た籐網の籠が有ったので天井から紐で吊るし思い切り捩っておいてからシロを籠に乗せ捩りを勢い良く戻す、回転が速い時は下りる事も出来ず、回転がおさまってから慌てて飛び降りるのだが猫でもかなり目が回るらしい、あっちによろよろこっちによろよろと部屋をうろつき足が全くおぼつかなかったのが面白く何度もやったが流石に天井から下がった籠に入れようとすると必死で私の服に爪を立てて抵抗するようになった、
それでも毎日の様に私にまとわりついて居たのだが、やはり最後はどうなったのか解らない、15の歳に東京に出て来てその年に一番下の兄に女の子が出来た、
私は末っ子だったので妹の様にこの姪が可愛くて兄の家に遊びに行っては抱っこをしていた、2~3歳頃から私の胡坐の中が彼女の指定席で行くと「おいで」」と言うのを待っているように胡坐の中に入って居た、兄と話をしていたりで姪に何かしているわけではないのだがチョコンと座ってにこにことして居たのだが彼女が4歳くらいの時にこの家に三毛猫が貰われてきた、この猫も私の膝が大好きでミーが居る時に私が胡坐をかくとゆっくりと入って来て丸まってしまう、姪もこのミーをすごく可愛がっていたので先に私の胡坐をとられると追い出すことはしない、隣にちょこんと座っていた、
その姪も去年の9月で50歳になった、本当に年月の過ぎるのは早いものだ、兄夫婦もすでに他界して10年以上が過ぎた、思い返すと随分多くの人を見送って来たものだが末っ子の定めだな、

猫のウィンク

2014-03-28 12:34:29 | 雑記
ふと浮かんだ言葉だが、こいつでなんか書けないかなと考えてもそう上手い事が書ける訳もない、仕方ないので取りあえず猫の話を書いてみる、
猫好きの方々が面白いHPやブログを上げているのでマニアックな物は無理だから子供の頃の記憶を辿ってみた
未だ幼いころと言っても多分小学校の低学年頃、親父が何処からら子猫を貰って来た、三毛猫だった気がするが定かではない、未だ小さな子猫だったが乳離れはしていたと思う、
名前は定番の「タマ」、たしかその頃お袋は居なかったと覚えている、
お袋は小学校3年生の時に乳癌で左の乳房を完全に削除した為に家に居なかったのでその時期ではなかったかと思う、
親父は近くの竹製品の加工工場に勤めていて木工旋盤で竹のジョッキや花瓶なんかを作っていたので竹の硬い部分を綺麗な球体に削ってこの猫の玩具にと2つ持って帰って来た、
これをタマの前に転がすともの凄い勢いで追いかけて行き前足で押さえるのだが爪を立てると硬いせいでまた勢いよく転がってゆく、これを又追いかけて行き又弾き飛ばして追いかける、これを疲れるまで続けるのを見ながら晩酌をやっていた、
冬になると寝ている私の処に来て布団に入れろと催促をする、片側を持ち上げてやるとするすると入り込んで来てお腹のあたりで丸まってねる、その頃未だ家にいた姉と私の布団に入りこむのだが親父の布団には入らない、これには理由が有って最初の頃は親父の布団にも入っていたのだが有る時親父が思い切りタマの鼻っ先に放屁したらしい、
「タマの奴、大急ぎで布団から顔を出すと深呼吸してやがる」と親父が鼻にしわを寄せてその時のタマの表情と動きをしたので皆で大笑いをしたのだがその後は親父の布団に入る事は無くなった、
田舎の風呂は木の風呂桶で洗い場らしい物は無い、今考えると実に汚いがその頃はそれが当たり前だった、他の家も大抵木のへそ釜で何件か五右衛門風呂の家も有った、
有る日風呂に浸かっていたらタマが顔を出した、こっちを見て「ニャーン」と言うので何の気なしに「おいで」と言ったら本当に勢いをつけて踏み台でジャンプして飛び込んで来た、無論そのまま湯の中に頭からドブンである、これは私も驚いたが当のタマはもっと驚いただろう、何しろ猫は水が苦手である、必死で犬かきならぬ猫か木をするのを拾い上げて親父を大声で呼ぶ、濡れ鼠ならぬ濡れ猫である、これは実にみじめな格好だが此方も裸の処で焦りまくったタマが必死で駆け上がったの胸は傷だらけだ、
親父は大笑いしながらタオルで拭いていたがドジな奴だった、いつ頃から居なくなった覚えていないが猫は死が近くなると何処かに行ってしまうと言う言い伝え通り何時の間にかタマは居なくなった、

反対投票

2014-03-24 16:49:19 | 雑記
大阪市長選が橋下氏当選で終えた、しかし投票率は最低で投票された中には白紙票が6万票も有ったと言う、立候補した候補者には誰も任せる気がしない、しかし棄権だけはしたくないと言う気持ちは本当によくわかる、都知事選も前回の国選も自分も本当に「該当者なし」と書いて投票したかった、いや今思えば本当にそうすべきだった、
ずっと考えていたが選挙に「反対票」を設けた方が良いのではないか、絶対やって貰いたい候補者と絶対に当選してほしくないと言う候補者を一票ずつ投票し両方の票を相殺した得票を有効とする、こうすればいわゆる「組織票」の弊害も無くなるだろう、
都知事選も少しは違っただろうし国選も恐らく自民党があれだけの議席を集める事もあるまい、
増税の理由に挙げていた「国債償還」はとっくに消えてしまい国債頼みで建築予算のバラマキ、医療費負担は上げ、更に配偶者控除もなくし年金支払いも増やし、支払いをさげて「強い国家」を標榜する、昔「富国強兵」と言う標語があったが今の安倍政権のやっている事と言動を見れば正しく「富国強兵」に重なって来る
富国、国が栄えると言う事は国民全てが豊かになると言う事にほかならず、「国民の一部」が豊かになっても国が栄えたとは言えない、「大日本帝国」は「強兵」を堂々と叫んだが今の日本は平和憲法が有る、「国家間の紛争を武力をもって解決する事を永久に放棄」したはずである、「永久」と書かれたものを簡単に変えるならその文言は何の意味もなかったわけだ、「永久に」は「いつでも書き直せる」と言うのなら「永久に」と言うのは一体何だったんだろう、
「そう言ったかも知れないが今は我々が政治を司っているから帰るのは当然だ」というなら今彼らが言っている事も簡単に反故に出来ると言う事になる、国際的に標榜してきた日本国憲法はそんなに軽いものなのか、たとえばソ連がロシアになった様にその政治システム自体が変わってしまった、革命が起きたとでも言うなら、「あの政府は間違いだったから我々は新たの政府を作った」と言うなら良くは無いが理屈は通る、
しかし、国の憲法はそのまま継続するが基本部分も担当政府が自由に入れ替える、もしくは「解釈を変える」事が可能なら国際的には全く信頼性が保てないだろう、国民の大半、知識層の殆どが反対しているのだから、これをマニフェスト、政治公約として掲げて選挙に勝ったならまだしも選挙時点ではおくびにも出さず「国民の忖度を受けた」とは全く理が通らない、それこそ大阪の橋下がやった様に「憲法を変え、消費税を上げる」事に国民の信を問うと解散したらどうだ、これだけは橋下氏の方法を指示するよ

責任か権利か

2014-03-15 16:41:49 | 雑記
権利と責任は裏表の関係だろう、何らかの権利を持って行う行為の結果については行為を行った者が責任を負うと言うのが当然な事だ、「私が責任を持って行う」と言うのは「私の権利で行う」と同義語に近い、
そう考えてみると安倍総理の言動の「私の責任で」を「私の権利で」に置き換えると実に解りやすい、憲法の改定も特定秘密保護法も原発再稼働も「私の権利で行う」と言いたてている事になる、国民感情として正しく“権力を振りかざし国民の声に耳を貸さず「私の権利で行う」”と聞こえて来る、
権利と責任の重さは当然平衡していなければならない、しかし安倍総理が「私の権利で」行う事の重大さは安倍信三が負い切れる責任の訳もない、国民が苦しみ、国が他国に脅威と不快感を与え結果として日本が負いきれない負担を担わされた時、安倍信三と言う個人がどういう責任をとると言うのか、議員を辞める?私財をなげうって何とかなる話ではないしましてや「皺腹掻き切って」済む話ではない、
船長の判断ミスで船が沈没したから船と運命を共にすると言う事で責任をとるとしたら船客が助かったと言う前提だ、国が沈めば船客はすべて運命を共にしなければならなくなる、
今の与党には良識のある議員は居ないのか、彼の暴走を手をこまねいてみていれば結果は彼の手柄で失敗は党の責任になる事は目に見えているだろう、
彼は取り巻きを自分の腹心乃至同意見の者で固めていると言う、それがどういう事か歴史に学ぶ事も出来ない、本当に自民党の内部は「安倍カラー」一色なのか?連立与党と言っているが公明党は単なる第二自民党なのか、あらゆる学者も他国からもあれだけ批判を受けても無視し暴走しているとしか思えない、
朝鮮派兵に猛進し始めた秀吉の老執に近い、周りが何も言えない状況はどうなるかは多くの歴史が、世界の近代史が証明している、今の状況では自民党の良識と公明党の覇気を期待するしかないのか、野党は「小異を捨てて大同に付く」と言う気概もないのか
我々が出来る事は一体何なのか、いや外国ではこの状況ならもっと多くのデモが起きているだろう、今立たなければ「デモはテロと同義語だ」と言い放つ政府にお隣の国と同じような恐怖政治になりかねない、カストロか大塩平八郎か、今はカリスマが必要だ
(こんな事を書いたら憲兵が来るかもな)


どうしたものか、

2014-03-13 18:40:45 | 雑記
私には二人の姉がいる、歳は少し離れていて下が5歳上で上は8歳上だ、
この二人はあまり仲が良くない、と言うよりかなり険悪である、私はと言えば暫くは両方とも有る程度仲良くやっていたのだが最近は下の姉とは殆どやり取りがない、
私は子供の頃姉たちと生活した記憶が余りない、昭和30年代の貧乏な田舎の家では当然の様に中学を降りると就職してしまう、上の姉は小学校に上がった時に鷲津の紡績工場に女工として出て行った、その後何年かは盆暮れには帰って来た事を覚えている、
しかし元々持病が有った上にその頃の紡績工場は環境が悪く肺結核になる事が多かった、何年位其処にいたのか知らないが結局水商売になり父親と上手くゆかず家には寄り付かなくなった、下の姉も3年後に就職したが此方も結核になって暫く天竜荘と言うサナトリュームに半年位居てやがて水商売になった、
ちょうどその頃母親が乳癌から肺に転移して無くなってしまい中学に入ったばかりの自分は父親と二人の生活をしていた、近くに仕事がないから仕方ないが結局兄弟での思い出と言う物は自分がyははり中卒で働き出してからの記憶だけである、
下の姉は17歳で母親、22歳で父親を亡くした、今なら交通事故の後遺症になるはずだが当時は事故から1年を過ぎて脳溢血で倒れ6日間寝たままで逝ってしまったのだが父親の交通事故の時隣のベッドにいた男性と結婚し父親が無くなる1年間は同居していたのだがこの連れあいもその6年後に同じ脳溢血で他界してしまった、
本人は腎臓と肝臓に障害を抱えて子供を2人育てると言う生活になったのだがその頃から
「自分は非常に不幸な生い立ちで理不尽に苦しい生活をしている」と言う考え方が「だから他の人は私を助けるのが当たり前だ」」と言う考え方になり、その頃から上の姉とトラブルが絶えなくなったらしい、
当時自分は一人身で結婚をする気もなかったので下の姉を母子寮から引き取って一緒に生活していたのだが持病が悪化して入院しなければならなくなり未だ20代前半の私では手にあまり施設に入れていたのだが退院したら子供を連れて浜松に戻って行った、
しかしその性格と言うか考え方が災いし職場を転々とし、その上子供たちも離れてしまったらしい、その頃私は縁が有って今の女房と一緒になったのだが姉は私が一人身の時と同じような対応を求めて来るのでついつい疎遠になってしまった、
今私は66歳、下の姉は71歳になるはずだ、気にはなるのだが上の姉が「声を掛けたら又昔の様な行動になるから」と言うのでそのまま過ぎている、実際問題自分の頭のハエも追えない状況ではどうにもならない、子供も上の子は今年で51歳になる筈だ、(子供がいるんだから)と言い訳をしながらこのまま会わないで他界されたら後味の悪い事になるなと思うのだが、どうしたものか