生まれも育ちも筋金入りの貧乏だった、赤貧洗うが如くと言うがそんなものだったのだろう
今新聞その他で問題になっているのは「貧困問題」と表現されているが私にとっては「貧」ではあったも「困窮」と言う意識はあまりなかった気がする
昭和20年代から30年代の日本は殆どの家庭が貧困状態だったんじゃないか
特に狭い山間の農村は当たり前の生活が今から考えれば「貧困」何だろうが兎に角「貧乏」だったと思う
尤もあの村から出たのは中学を下りてからだから外の事は解らない、
お蔭で自分の貧乏加減は相対的に左程格差が有ったとは感じられていなかった
しかし、貧農の村において田畑が無いと言う我が家の貧乏は根本的な食い物に直結する貧乏だった、
それでも自分の中では「貧しい事が苦しい」と言う事と直結していなかったのは年がら年中(腹減った)と言うのはどの子供は腹を減らしていたので特別辛いと言う意識は無かった気がする、
江戸時代じゃあるまいしと思うかもしれないがその頃の村落はそんなもんだったのである、
腹が減ったら野山の果実、葉っぱ、花など何でも食べる、
時々は畑からその時期食べられるものを戴いて腹を満たす、薩摩芋、大根は洗えば生でも十分に喰える、しかし里芋とジャガイモは生では旨くないし腹を下す、
夏になると胡瓜、トマト、甜瓜、時には茄子と結構食えるものは多い
秋には柿、山栗は勝手に生えているので林間に落ちているのを拾って来て生のまま渋皮を肥後守でこそげ落として食べる
初冬には蜜柑が取れる、蜜柑は出荷する様な良い物は避けて摘果するような物を選んで食べる、
大人もある程度見て見ぬふりをする、どこの子も同じようなものである
「昼になるとそっと抜け出して水で腹を満たす」と言う事を見たが自分の小学校入学当時は未だ給食が無かったので弁当が持てず、蒸かした芋2~3個と言う生徒も何人かいた、
我が家はそれすらない時もあり昼時に校庭で時間を潰した事もあった、外に出たら5歳上の姉がいた事もあった
自分にとっては懐かしいに近い思い出だが姉にとっては惨めな思い出だったようで大人になった頃随分親を恨んでいた様だった
貧しく生まれ育ってきたのであまり貧しい事が「貧困」と言う意識にならなくていつも(こんなもんだろう)と生きて来た、
恐らく結婚をしていなかったらずっと貧乏のままのんべんだらりと生きて来たんじゃないのかと思う
金が無くて飯が喰えないのはずっと「普通」だった、
だから今は何時でも不幸ではない、特に幸福と言う訳でもないが(経済的にである)
連れ合いには苦労をさせるわけにはいかないから頑張る程度の問題でもし一人になったら多摩川の川原で野垂れ死にも悪くないかなと思う事もある
破綻主義者と言う訳でもないがニヒリズムにどこか憧れが有るかもしれない