萬福寺へ行って来ました
みるみる会員の正田さんからのレポートです。
雪舟作庭の萬福寺の石庭へ行ってきました! 正田 裕子
○訪れた場所 萬福寺 雪舟庭園(国史蹟及名勝指定)(本堂国重要文化財指定)
○説明してくださった人 萬福寺ご住職の奥さま
夏休み明けの体育大会も終え、振替休日となったとある月曜日に、県西部の益田市にある萬福寺の雪舟庭園を訪れてみました。
さすがに週明けの午前中、朱塗りの門の前で出会った3人の婦人とすれ違った後は来訪者もなく、ゆったりと石庭並びに本堂(国の重要文化財)を鑑賞しました。
清流日本一の高津川沿いにある「萬福寺」は、門をくぐると三十余メートル四方もあろうかという前庭が見えます。前庭の向こうには本堂とお寺の玄関があります。京都などの大きなお寺とはいいませんが、そり上げた本堂の大きな屋根は銀色の瓦が広く拭かれ、四隅の柱や本堂正面の障子からはすっきりとしたたたずまいと共に歴史や風格を感じるものがありました。また、本堂の正面の向かって右側には雪舟禅師の上半身像がありその雪舟と萬福寺を菩提寺としていた地元益田氏との関係についての説明がありました。戦乱の世、都と500キロも離れていない益田の地で「文明11年(1479)に15代益田七尾城主・益田越中兼尭(かねたか)公が画聖雪舟を益田に招き、堂後に石庭を作らせた」とのことでした。
玄関を訪れるとご住職の奥様が、「戦国の世の中で雪舟禅師が創られた石庭を心で楽しんでください。」と笑顔で迎えてくださいました。
雪舟等楊禅師は、山口・大内氏の庇護のもと自ら大陸へ向かいあこがれの地で3年余り禅と画業の修行をしてきます。大陸に渡り帰国時には景徳禅寺で「四明天童山第一座」の位を与えられています。奥様の言葉の端々には、菩提とされた益田氏とその益田氏が招いた雪舟禅師への深い敬意と日本文化への豊かな思いを感じることが多々ありました。
宋・元時代の作品を多く模写したといわれる雪舟は、多くが謎に包まれており、雪舟の作と確定している作品も数少なく、帰国後の真筆が確認されている作品は全てが国宝に指定されています。
受付での会話の中で「石庭もまた絵画的です」とも、雪舟が求めた「禅の世界の宇宙観を表している」とも奥様から教えてくださいました。実際鑑賞してみると、月見台の頂にある石が、秋冬山水図(冬景図)の空より描かれる線のようにも見えたり、その月見台と手前の庭の間にある「心字池」の存在から三途の川を思い起こしたり、月見台を隔てる水の意味を問うてみたりと、日常では味わうことのできない感覚を味わうことができました。
「周りにある草木は無常の存在であり、石は変わることの無いものであるので、石を観てください。」とおっしゃった意味とは…。
500年経ても倒れたりくずれることのない庭の姿は、当時の雪舟及び石庭を作り上げた人々の技術の高さや精神性の深さを表し、やはり日本文化を代表する一つではないかと強く感じました。
?はつきませんが、今度は生徒達と一緒に対話をしながら鑑賞したいと思いました。
以前、初任校での教え子をここ萬福寺へ連れてきたことを思い出しながら、現在共に学ぶ生徒達とも改めてこの石庭で対話型鑑賞をしたいなあと思いました。
一人で鑑賞してみると…
見えたこと(fact)
・庭は大きく分けて、敷地から庭の部分、その向こう側に池が有り、その池のさらに向こう側にゆるやかな丘のようのな部分が有る。
・庭には草が生えているが、丁寧に駆られていて美しい黄緑色が広がる。その庭の中には比較的に平らに加工された大小の石が百余り、積まれたり並べられているように見える。正面から見ると,石が三割、緑が七割くらいの比率で見える。
・並べ方は、小高い丘の部分に集中して摘まれているように見えるが、池の縁には隙間が無く丘の陸地に平らに続くように石が並べられている。手前の敷地につながる方の縁も同様である。池の右奥に巨石を含めやはり百あまりもあろうかという石が並べられている。
考えたこと(truth)
○池の水と庭地との境がはっきりとしている。右奥の石の積み重なりと並びが賽の河原を連想し、あの世と現世の境を思った。もし現世と来世を思うのなら、手前が現世であり、池の向こう側の小高い丘の部分が来世であろう。
○来世の丘は緩やかで穏やかな感じがする。あの世は穏やかで、極楽往生の世界であろうか。
(fact)・そう思って見ると、岩や石は階段のように積まれているように見える。最も高い位置に半月が半分程見えるように岩が土の部分から出ている。否がおうでも、その岩の突端に視線がいってしまう。
(truth)○まるで秋冬山水図の岩肌(と私が思っている)線のようだ。NHKの雪舟鑑賞ビデオで見た時の模写の姿を思い起こし、岩肌のその線は画面最初の一番最初に描かれた線であろうと推測していた情報と合わせて、その頂にある石は無からの始まりを表しているのではないかと思った。もしくは、ある世界の終わりとその次の次元へつながる始まりとのつながりのようにも考えられる。
○池の深さはあまりはっきりしないが、池の縁に並べられている石の様子と周りにある石の大きさからすると深さは大人の腰の高さくらいまでで、1メートルまで無いのではないか。室町時代の成人男性の身長は分からないが、腰より深ければ,作業でも危険が伴いやすくなるから、やはり大人の腰くらいの深さと思われる。
(fact)・池の水に藻が浮いているのか底が見えない。
○底が見えないことから、人間の深層の意識を表しているのではないか。来世との境目と考えても、人が現世の意識からどこか深い時間や空間をも隔てる遠くを見るようである。
日本に伝わる仏教観や宇宙観を見るようである。人間に備わるが普段意識することの無い部分が確かに存在するのではないか。
○池の向こう側の丘も五百年あまり崩れていないと聞いたことと、平らに加工してある石が表面に凹凸を余り出さないで見えることより、小高い丘の下には見えていない岩が多く埋められているのではないかと思った。土は形を変えるが、岩は長年形をほぼとどめていることより、変わらぬ仏の教えや生や死という普遍の営みなど意識の計り知れないものが石となって見えない所にも表現されているのではないか。意識の奥深い人間の精神性を求めたのではないか。また、雪舟は後世にも、石と土と水とで変わらぬ仏教の教えや世界を伝えるために庭を作ったと考えた。恐らく、多くの人の力と技術が集められたであろうこの庭は、雪舟を招いた益田兼尭も移り変わりの激しい乱世の中で自分を見失わないでいるための心の拠り所にしたのではないかとふと思った。
○石の加工には多くの人力が必要ではなかったのか。自然にも見えるが、平らに見える石の姿からは重機も無い時代にかなり多くの人の技術と力がつぎ込まれているのではないかと考えた。それとも、近くを流れる高津川から巨石を運んだのか。どちらにしても、多くの人々の力が結集して作られた庭と考えると、当時多くの人々の深い信仰を集めた場所であり、人々が信仰を求めていた時代ではなかったかと思う。
みるみる会員の正田さんからのレポートです。
雪舟作庭の萬福寺の石庭へ行ってきました! 正田 裕子
○訪れた場所 萬福寺 雪舟庭園(国史蹟及名勝指定)(本堂国重要文化財指定)
○説明してくださった人 萬福寺ご住職の奥さま
夏休み明けの体育大会も終え、振替休日となったとある月曜日に、県西部の益田市にある萬福寺の雪舟庭園を訪れてみました。
さすがに週明けの午前中、朱塗りの門の前で出会った3人の婦人とすれ違った後は来訪者もなく、ゆったりと石庭並びに本堂(国の重要文化財)を鑑賞しました。
清流日本一の高津川沿いにある「萬福寺」は、門をくぐると三十余メートル四方もあろうかという前庭が見えます。前庭の向こうには本堂とお寺の玄関があります。京都などの大きなお寺とはいいませんが、そり上げた本堂の大きな屋根は銀色の瓦が広く拭かれ、四隅の柱や本堂正面の障子からはすっきりとしたたたずまいと共に歴史や風格を感じるものがありました。また、本堂の正面の向かって右側には雪舟禅師の上半身像がありその雪舟と萬福寺を菩提寺としていた地元益田氏との関係についての説明がありました。戦乱の世、都と500キロも離れていない益田の地で「文明11年(1479)に15代益田七尾城主・益田越中兼尭(かねたか)公が画聖雪舟を益田に招き、堂後に石庭を作らせた」とのことでした。
玄関を訪れるとご住職の奥様が、「戦国の世の中で雪舟禅師が創られた石庭を心で楽しんでください。」と笑顔で迎えてくださいました。
雪舟等楊禅師は、山口・大内氏の庇護のもと自ら大陸へ向かいあこがれの地で3年余り禅と画業の修行をしてきます。大陸に渡り帰国時には景徳禅寺で「四明天童山第一座」の位を与えられています。奥様の言葉の端々には、菩提とされた益田氏とその益田氏が招いた雪舟禅師への深い敬意と日本文化への豊かな思いを感じることが多々ありました。
宋・元時代の作品を多く模写したといわれる雪舟は、多くが謎に包まれており、雪舟の作と確定している作品も数少なく、帰国後の真筆が確認されている作品は全てが国宝に指定されています。
受付での会話の中で「石庭もまた絵画的です」とも、雪舟が求めた「禅の世界の宇宙観を表している」とも奥様から教えてくださいました。実際鑑賞してみると、月見台の頂にある石が、秋冬山水図(冬景図)の空より描かれる線のようにも見えたり、その月見台と手前の庭の間にある「心字池」の存在から三途の川を思い起こしたり、月見台を隔てる水の意味を問うてみたりと、日常では味わうことのできない感覚を味わうことができました。
「周りにある草木は無常の存在であり、石は変わることの無いものであるので、石を観てください。」とおっしゃった意味とは…。
500年経ても倒れたりくずれることのない庭の姿は、当時の雪舟及び石庭を作り上げた人々の技術の高さや精神性の深さを表し、やはり日本文化を代表する一つではないかと強く感じました。
?はつきませんが、今度は生徒達と一緒に対話をしながら鑑賞したいと思いました。
以前、初任校での教え子をここ萬福寺へ連れてきたことを思い出しながら、現在共に学ぶ生徒達とも改めてこの石庭で対話型鑑賞をしたいなあと思いました。
一人で鑑賞してみると…
見えたこと(fact)
・庭は大きく分けて、敷地から庭の部分、その向こう側に池が有り、その池のさらに向こう側にゆるやかな丘のようのな部分が有る。
・庭には草が生えているが、丁寧に駆られていて美しい黄緑色が広がる。その庭の中には比較的に平らに加工された大小の石が百余り、積まれたり並べられているように見える。正面から見ると,石が三割、緑が七割くらいの比率で見える。
・並べ方は、小高い丘の部分に集中して摘まれているように見えるが、池の縁には隙間が無く丘の陸地に平らに続くように石が並べられている。手前の敷地につながる方の縁も同様である。池の右奥に巨石を含めやはり百あまりもあろうかという石が並べられている。
考えたこと(truth)
○池の水と庭地との境がはっきりとしている。右奥の石の積み重なりと並びが賽の河原を連想し、あの世と現世の境を思った。もし現世と来世を思うのなら、手前が現世であり、池の向こう側の小高い丘の部分が来世であろう。
○来世の丘は緩やかで穏やかな感じがする。あの世は穏やかで、極楽往生の世界であろうか。
(fact)・そう思って見ると、岩や石は階段のように積まれているように見える。最も高い位置に半月が半分程見えるように岩が土の部分から出ている。否がおうでも、その岩の突端に視線がいってしまう。
(truth)○まるで秋冬山水図の岩肌(と私が思っている)線のようだ。NHKの雪舟鑑賞ビデオで見た時の模写の姿を思い起こし、岩肌のその線は画面最初の一番最初に描かれた線であろうと推測していた情報と合わせて、その頂にある石は無からの始まりを表しているのではないかと思った。もしくは、ある世界の終わりとその次の次元へつながる始まりとのつながりのようにも考えられる。
○池の深さはあまりはっきりしないが、池の縁に並べられている石の様子と周りにある石の大きさからすると深さは大人の腰の高さくらいまでで、1メートルまで無いのではないか。室町時代の成人男性の身長は分からないが、腰より深ければ,作業でも危険が伴いやすくなるから、やはり大人の腰くらいの深さと思われる。
(fact)・池の水に藻が浮いているのか底が見えない。
○底が見えないことから、人間の深層の意識を表しているのではないか。来世との境目と考えても、人が現世の意識からどこか深い時間や空間をも隔てる遠くを見るようである。
日本に伝わる仏教観や宇宙観を見るようである。人間に備わるが普段意識することの無い部分が確かに存在するのではないか。
○池の向こう側の丘も五百年あまり崩れていないと聞いたことと、平らに加工してある石が表面に凹凸を余り出さないで見えることより、小高い丘の下には見えていない岩が多く埋められているのではないかと思った。土は形を変えるが、岩は長年形をほぼとどめていることより、変わらぬ仏の教えや生や死という普遍の営みなど意識の計り知れないものが石となって見えない所にも表現されているのではないか。意識の奥深い人間の精神性を求めたのではないか。また、雪舟は後世にも、石と土と水とで変わらぬ仏教の教えや世界を伝えるために庭を作ったと考えた。恐らく、多くの人の力と技術が集められたであろうこの庭は、雪舟を招いた益田兼尭も移り変わりの激しい乱世の中で自分を見失わないでいるための心の拠り所にしたのではないかとふと思った。
○石の加工には多くの人力が必要ではなかったのか。自然にも見えるが、平らに見える石の姿からは重機も無い時代にかなり多くの人の技術と力がつぎ込まれているのではないかと考えた。それとも、近くを流れる高津川から巨石を運んだのか。どちらにしても、多くの人々の力が結集して作られた庭と考えると、当時多くの人々の深い信仰を集めた場所であり、人々が信仰を求めていた時代ではなかったかと思う。