広島現美に行ってきました!!
会員の金谷さんが広島現美に行ってきました!!
レポートが届きましたのでUPします。
「ぐりとぐら」を読まずに大人になる日本人はいないのではないかと思うくらいの童話の展覧会に出かけたようです。
ちょっと、前なんですけどね・・・。では、ご覧ください。
みるみるの金谷です。先日・・・いや先月「ぐりとぐら展」(ひろしま美術館)と「第9回ヒロシマ賞受賞記念 ドリス・サルセド展」(広島市現代美術館)に出かけました。
「ぐりとぐら」といえば、「ぼくらのなまえは ぐりとぐら このよでいちばんすきなのは~」と思わず口ずさんでしまう方もいるのでは?「ぐりとぐら展」は、そんな「ぐりとぐら」の誕生50周年を記念した、ぐりとぐらの絵本や関連本の原画展です。
展覧会場前には、大きな玉子がドーンと置いてあり、赤と青のサロペットや帽子を身につけた子どもたちが「ぐりとぐら」になりきって、玉子と一緒にカメラに収まっていました。このときは一人で来てしまったことを、ちょっと残念に思いました。「ぐりとぐら」になりきったちびっこたち、かわいかったですよ。
「ぐりとぐら」のシリーズは、自分が子どもの頃はもちろん、娘たちとも読んでいた大好きな絵本です。でも、この原画展をみて「再発見」の連続でした。「こんなに、色鮮やかに描かれていたの?」や「こんなところに、棒がある!」「こういう草や木ってあるよね!リアルだぁ」等々、みることが楽しくてたまりません。こういうのを眼福というのかなぁ、なんて思いながら、会場を行ったり来たりしていました。
絵本では、絵と文字(物語)がセットになっています。展覧会場ではあらすじや作者の言葉がキャプションになっていますが、基本的に絵は絵だけで展示されています。文字から離れて絵に集中してみたからこそ、再発見できたのかもしれないなと思いました。
絵本は絵と物語で一つの作品になっているので、矛盾するようだけれども、絵だけでも幸せになれるって面白い!と思いました。もちろん、山脇百合子さんの絵があるのも、中川李枝子さんのお話があるからこそですね。
カフェでは、展覧会にちなんだメニューも登場。その中で私は、フライパンカステラを注文しました。ミニフライパンに乗った、ふかふかのカステラに、アイスをつけて「いただきまーす!」。目だけではなく、おなかも幸せになった、ひろしま美術館でのひと時でした。
「ぐりとぐら展」の会期は10月13日まで。
ひろしま美術館で、こころも、おなかも、おしあわせにー!
さて、次に訪れたのは、広島現代美術館(ゲンビ)での「ドリス・サルセド展」です。少し前から、ポスターなどを目にしていましたが、「何だかよくわからない」「でも、なにか気にかかる」というのが正直なところでした。そこで、学芸員さんによるギャラリートークがあると知り、それにあわせてゲンビを訪れました。
ゲンビのHPにドリス・サルセドさんの紹介があります。
>1958年にコロンビアの首都ボゴタに生まれたドリス・サルセドは、自国コロンビアをはじめ、世界で横行する暴力や差別などに対して、芸術が強い抵抗の力を持ち得ることを一貫して示してきた作家です。
学芸員さんから、コロンビアでの紛争や暴力によって、多くの方が犠牲になっているという話を聴き、あまりのひどさに、今、自分が生きている同じ時代に起こっていることとは思えませんでした。悲しみと怒りの海が、静かに自分の中に広がっていくような感じでした。
この展覧会で展示されているのは、無数のバラの花びらを糸で縫い合わせ、大きな1枚の布のように仕立てられた「ア・フロール・デ・ピエル」と、土の塊をはさむ形で重ねられた長机が部屋中に無数に並べられたインスタレーション「プレガリア・ムーダ」です。
「ア・フロール・デ・ピエル」のくすんだ赤い色は、人の血の色のようであり、傷ついた心の色であるようにもみえました。何か、生々しい傷口のようでありながらも、しっとりとした(ようにみえる)花びらの表面からは、柔らかさも感じられました。思わず「・・・痛かったね、つらかったね」と小さく呟いていました。そして、気の遠くなるような花びらの枚数に、何万人ともいわれる犠牲になった方を思いました。学芸員さんによると、この作品は拷問の末に亡くなったとされる、一人の行方不明の女性に捧げられているとのこと。一人の方に捧げられた作品でありながら、私には数知れない多くの方々の痛みまでも覆う、大きな毛布のようにみえました。
その後、地下1階展示室の「プレガリア・ムーダ」へ。この展示室すべての空間が、このインスタレーションで埋め尽くされています。20センチ位の厚さの土を、天板ではさんで重ねられた木製の長机の間を、ゆっくりと歩きました。机の天板の裏から、小さな草がいくつも生えていました。静かな空間に、並べられた机たちは、まるで棺のようでした。
「〈ア・フロール・デ・ピエル〉が普遍的な一人の誰でもない者への献花であるなら、本作は無数の誰でもない者のための追悼といえます。現代の大都市に偏在する貧困層の居住地区では、繰り返される暴力のなかで若者たちが殺されています。(後略)」(展覧会パンフレットより)
棺のような机の間を歩きながら、机の長さや草の生え方、そして間にはさまれている土の厚さも、一つずつ違っていることに気づきました。もしかすると、これは、亡くなった一人ひとりが、犠牲者という言葉一つで括られてしまうのではなく、自分の人生のストーリーをもって生きていた、一人ひとり違った人間であるということを表しているように思いました。中には、上に重ねられている机が土をはさんで、下の机の天板と平行ではなく、少し斜めになっているものもありました。もしかして、埋葬される際に、腕や足をなくされていた方なのかもしれない、だからその部分がない分、机が斜めに下がっているのかも、と。
私は目の前にあるものを、土をはさんで重ねられた机たちではなく、犠牲になった方々を埋葬しているお墓としてみている自分に気が付きました。でも、なぜ長机なんだろう?ふと疑問が浮かびました。もしかすると、机は学ぶ場や教育を意味しているのではないかと。「(若者たちは)本当は、学びたかったのでは?」「知識や教養を身につけていくことで、貧困や暴力から抜け出せるということかな?」「机から生えている草とともに、教育が再生へのキーワードなのかな」等々、ひとりACOP(自分と対話しながら鑑賞)をしていました。
「ア・フロール・デ・ピエル」と「プレガリア・ムーダ」に共通して思ったことは、手仕事が半端ない!ということです。何らかの処理が施されているとはいえ、バラの花びらを1枚1枚縫い合わせるという行為や、机の天板裏に小さな穴をあけ、草の種を一つずつ植えていくという作業(机に生えている草はすべて、本物!)は、本当に気が遠くなります。作品に合わせてチームを編成し、制作するということを聞いたのですが、そのもとにあるメッセージや思いの強さに、私は打たれました。
そこまでして、伝えたいことがある。ドリス・サルセドさん、強く美しい方です。
私が、レポートを準備している間に、コレクション展「どちらでもない/どちらでもある」は、終了してしまいました。「やっぱ、ゲンビいいよなぁ」(上から目線ですみません)と思う作品をたっぷりみることができました。改めて「ヒロシマ」を思い、考えることもでき、胸がいっぱいになりました。
ちなみに、ドリス・サルセド展は10月13日まで開催中です。静かな空間の中で、ドリス・サルセドさんの思いに触れてみませんか?
会員の金谷さんが広島現美に行ってきました!!
レポートが届きましたのでUPします。
「ぐりとぐら」を読まずに大人になる日本人はいないのではないかと思うくらいの童話の展覧会に出かけたようです。
ちょっと、前なんですけどね・・・。では、ご覧ください。
みるみるの金谷です。先日・・・いや先月「ぐりとぐら展」(ひろしま美術館)と「第9回ヒロシマ賞受賞記念 ドリス・サルセド展」(広島市現代美術館)に出かけました。
「ぐりとぐら」といえば、「ぼくらのなまえは ぐりとぐら このよでいちばんすきなのは~」と思わず口ずさんでしまう方もいるのでは?「ぐりとぐら展」は、そんな「ぐりとぐら」の誕生50周年を記念した、ぐりとぐらの絵本や関連本の原画展です。
展覧会場前には、大きな玉子がドーンと置いてあり、赤と青のサロペットや帽子を身につけた子どもたちが「ぐりとぐら」になりきって、玉子と一緒にカメラに収まっていました。このときは一人で来てしまったことを、ちょっと残念に思いました。「ぐりとぐら」になりきったちびっこたち、かわいかったですよ。
「ぐりとぐら」のシリーズは、自分が子どもの頃はもちろん、娘たちとも読んでいた大好きな絵本です。でも、この原画展をみて「再発見」の連続でした。「こんなに、色鮮やかに描かれていたの?」や「こんなところに、棒がある!」「こういう草や木ってあるよね!リアルだぁ」等々、みることが楽しくてたまりません。こういうのを眼福というのかなぁ、なんて思いながら、会場を行ったり来たりしていました。
絵本では、絵と文字(物語)がセットになっています。展覧会場ではあらすじや作者の言葉がキャプションになっていますが、基本的に絵は絵だけで展示されています。文字から離れて絵に集中してみたからこそ、再発見できたのかもしれないなと思いました。
絵本は絵と物語で一つの作品になっているので、矛盾するようだけれども、絵だけでも幸せになれるって面白い!と思いました。もちろん、山脇百合子さんの絵があるのも、中川李枝子さんのお話があるからこそですね。
カフェでは、展覧会にちなんだメニューも登場。その中で私は、フライパンカステラを注文しました。ミニフライパンに乗った、ふかふかのカステラに、アイスをつけて「いただきまーす!」。目だけではなく、おなかも幸せになった、ひろしま美術館でのひと時でした。
「ぐりとぐら展」の会期は10月13日まで。
ひろしま美術館で、こころも、おなかも、おしあわせにー!
さて、次に訪れたのは、広島現代美術館(ゲンビ)での「ドリス・サルセド展」です。少し前から、ポスターなどを目にしていましたが、「何だかよくわからない」「でも、なにか気にかかる」というのが正直なところでした。そこで、学芸員さんによるギャラリートークがあると知り、それにあわせてゲンビを訪れました。
ゲンビのHPにドリス・サルセドさんの紹介があります。
>1958年にコロンビアの首都ボゴタに生まれたドリス・サルセドは、自国コロンビアをはじめ、世界で横行する暴力や差別などに対して、芸術が強い抵抗の力を持ち得ることを一貫して示してきた作家です。
学芸員さんから、コロンビアでの紛争や暴力によって、多くの方が犠牲になっているという話を聴き、あまりのひどさに、今、自分が生きている同じ時代に起こっていることとは思えませんでした。悲しみと怒りの海が、静かに自分の中に広がっていくような感じでした。
この展覧会で展示されているのは、無数のバラの花びらを糸で縫い合わせ、大きな1枚の布のように仕立てられた「ア・フロール・デ・ピエル」と、土の塊をはさむ形で重ねられた長机が部屋中に無数に並べられたインスタレーション「プレガリア・ムーダ」です。
「ア・フロール・デ・ピエル」のくすんだ赤い色は、人の血の色のようであり、傷ついた心の色であるようにもみえました。何か、生々しい傷口のようでありながらも、しっとりとした(ようにみえる)花びらの表面からは、柔らかさも感じられました。思わず「・・・痛かったね、つらかったね」と小さく呟いていました。そして、気の遠くなるような花びらの枚数に、何万人ともいわれる犠牲になった方を思いました。学芸員さんによると、この作品は拷問の末に亡くなったとされる、一人の行方不明の女性に捧げられているとのこと。一人の方に捧げられた作品でありながら、私には数知れない多くの方々の痛みまでも覆う、大きな毛布のようにみえました。
その後、地下1階展示室の「プレガリア・ムーダ」へ。この展示室すべての空間が、このインスタレーションで埋め尽くされています。20センチ位の厚さの土を、天板ではさんで重ねられた木製の長机の間を、ゆっくりと歩きました。机の天板の裏から、小さな草がいくつも生えていました。静かな空間に、並べられた机たちは、まるで棺のようでした。
「〈ア・フロール・デ・ピエル〉が普遍的な一人の誰でもない者への献花であるなら、本作は無数の誰でもない者のための追悼といえます。現代の大都市に偏在する貧困層の居住地区では、繰り返される暴力のなかで若者たちが殺されています。(後略)」(展覧会パンフレットより)
棺のような机の間を歩きながら、机の長さや草の生え方、そして間にはさまれている土の厚さも、一つずつ違っていることに気づきました。もしかすると、これは、亡くなった一人ひとりが、犠牲者という言葉一つで括られてしまうのではなく、自分の人生のストーリーをもって生きていた、一人ひとり違った人間であるということを表しているように思いました。中には、上に重ねられている机が土をはさんで、下の机の天板と平行ではなく、少し斜めになっているものもありました。もしかして、埋葬される際に、腕や足をなくされていた方なのかもしれない、だからその部分がない分、机が斜めに下がっているのかも、と。
私は目の前にあるものを、土をはさんで重ねられた机たちではなく、犠牲になった方々を埋葬しているお墓としてみている自分に気が付きました。でも、なぜ長机なんだろう?ふと疑問が浮かびました。もしかすると、机は学ぶ場や教育を意味しているのではないかと。「(若者たちは)本当は、学びたかったのでは?」「知識や教養を身につけていくことで、貧困や暴力から抜け出せるということかな?」「机から生えている草とともに、教育が再生へのキーワードなのかな」等々、ひとりACOP(自分と対話しながら鑑賞)をしていました。
「ア・フロール・デ・ピエル」と「プレガリア・ムーダ」に共通して思ったことは、手仕事が半端ない!ということです。何らかの処理が施されているとはいえ、バラの花びらを1枚1枚縫い合わせるという行為や、机の天板裏に小さな穴をあけ、草の種を一つずつ植えていくという作業(机に生えている草はすべて、本物!)は、本当に気が遠くなります。作品に合わせてチームを編成し、制作するということを聞いたのですが、そのもとにあるメッセージや思いの強さに、私は打たれました。
そこまでして、伝えたいことがある。ドリス・サルセドさん、強く美しい方です。
私が、レポートを準備している間に、コレクション展「どちらでもない/どちらでもある」は、終了してしまいました。「やっぱ、ゲンビいいよなぁ」(上から目線ですみません)と思う作品をたっぷりみることができました。改めて「ヒロシマ」を思い、考えることもでき、胸がいっぱいになりました。
ちなみに、ドリス・サルセド展は10月13日まで開催中です。静かな空間の中で、ドリス・サルセドさんの思いに触れてみませんか?