今冬初の雪景色
一昨日は出雲で今冬初となる積雪があり、雪景色となりました。昨日の朝は路面が積雪により凍結し、いたるところで交通渋滞が起きました。いつまでたっても凍結路面の運転に慣れない私は、普段より15分も早くに家を出て学校に向かいました。おかげで、マイペースで運転することができ、ラッシュにも巻き込まれず、安全に学校にたどり着くことができました。
出雲はセンター入試の頃にいつも荒れた天候となり、受験生を苦しめますが、今年は一足早かったために、昨日のうちに積もった雪も溶けてしまい、今朝は日も差し、穏やかな受験日となったことをうれしく思いました。
受験生にとっては、そうでなくても過酷な日です。その日に追い打ちをかけるような天候だと、受験校に向かう前から試練が立ちはだかります。そんな日にならなくてなによりでした。でも、狭いようで広い日本の各地では、やはり雪に見舞われ、受験校に向かうのに難儀した受験生もいたようなので、ご苦労様でした。
さて、一昨日は、しんしんと降りしきる雪の中、3年生の2クラスで、雪舟の「慧可断ぴ図」の対話型鑑賞を行いました。雪って消音効果があるんでしょうね。とても静かな中で、2クラスの鑑賞は行われました。
1クラス目で感心した発言は「奥の白い服を着た人の線(描線)は他のところと比べて薄いけど、太いので、この人は偉い人なのではないかと思う」と、表現方法の違いに気付き、その違いの意味を考えることができたということです。
これは、何でもないような気付きに思われるかもしれませんが、VTS的に言うと、美的発達段階のステージが変わったと言える発言です。中学生くらいだと、見えたものに対する解釈(読み取り)は、見えたものをもとに、自分の考えを物語のように語るのが一般的です。しかし、この生徒は描き方と言う、表現様式の違いを見つけ、そこに描き手の存在を感じ、描き手が意志を持って描き方を変え、その効果(違うことによって偉い人と感じられるように描いたのではないかということ)までも狙ったのではないかと言うことまで推測することができていることは、作品をより客観的に解釈しようとしている表れであるからです。
このことを文章で説明し、理解してもらうことはなかなか困難な作業です。読んでいても、私が何を言いたいのかわからない方もいるかもしれませんね。
でも、対話型鑑賞を行うとき、このスタイルの鑑賞の初心者である生徒たちが見ている作品には当たり前ですが、それを制作した作家がいるのですが、その作家の存在は生徒たちにとって、思考の範疇外です。見えているものの意味を読み取ることに必死で作者の存在は意識されません。でも、このスタイルの鑑賞を続け、回数を重ねていくと変化が現れる生徒が出てきます。先の発言もそんな変化の現れです。
このような多くの変化を感じさせる発言がこのスタイルの鑑賞を5回くらい続けていると表れてきます。VTSでも、5回は行うことを原則としているのも、実践を重ねていると納得ができます。このことからも、私は中学校3年間で5回以上、このスタイルの鑑賞を行いたいと考えています。そして、見せたい5作品を厳選したいと考えています。
さて、2クラス目にも驚くような発言がありましたが、この報告は次回にしたいと思います。
対話型鑑賞の醍醐味について語っているつもりですが、だいごみの「だ」くらいは伝わっているのでしょうか?
一昨日は出雲で今冬初となる積雪があり、雪景色となりました。昨日の朝は路面が積雪により凍結し、いたるところで交通渋滞が起きました。いつまでたっても凍結路面の運転に慣れない私は、普段より15分も早くに家を出て学校に向かいました。おかげで、マイペースで運転することができ、ラッシュにも巻き込まれず、安全に学校にたどり着くことができました。
出雲はセンター入試の頃にいつも荒れた天候となり、受験生を苦しめますが、今年は一足早かったために、昨日のうちに積もった雪も溶けてしまい、今朝は日も差し、穏やかな受験日となったことをうれしく思いました。
受験生にとっては、そうでなくても過酷な日です。その日に追い打ちをかけるような天候だと、受験校に向かう前から試練が立ちはだかります。そんな日にならなくてなによりでした。でも、狭いようで広い日本の各地では、やはり雪に見舞われ、受験校に向かうのに難儀した受験生もいたようなので、ご苦労様でした。
さて、一昨日は、しんしんと降りしきる雪の中、3年生の2クラスで、雪舟の「慧可断ぴ図」の対話型鑑賞を行いました。雪って消音効果があるんでしょうね。とても静かな中で、2クラスの鑑賞は行われました。
1クラス目で感心した発言は「奥の白い服を着た人の線(描線)は他のところと比べて薄いけど、太いので、この人は偉い人なのではないかと思う」と、表現方法の違いに気付き、その違いの意味を考えることができたということです。
これは、何でもないような気付きに思われるかもしれませんが、VTS的に言うと、美的発達段階のステージが変わったと言える発言です。中学生くらいだと、見えたものに対する解釈(読み取り)は、見えたものをもとに、自分の考えを物語のように語るのが一般的です。しかし、この生徒は描き方と言う、表現様式の違いを見つけ、そこに描き手の存在を感じ、描き手が意志を持って描き方を変え、その効果(違うことによって偉い人と感じられるように描いたのではないかということ)までも狙ったのではないかと言うことまで推測することができていることは、作品をより客観的に解釈しようとしている表れであるからです。
このことを文章で説明し、理解してもらうことはなかなか困難な作業です。読んでいても、私が何を言いたいのかわからない方もいるかもしれませんね。
でも、対話型鑑賞を行うとき、このスタイルの鑑賞の初心者である生徒たちが見ている作品には当たり前ですが、それを制作した作家がいるのですが、その作家の存在は生徒たちにとって、思考の範疇外です。見えているものの意味を読み取ることに必死で作者の存在は意識されません。でも、このスタイルの鑑賞を続け、回数を重ねていくと変化が現れる生徒が出てきます。先の発言もそんな変化の現れです。
このような多くの変化を感じさせる発言がこのスタイルの鑑賞を5回くらい続けていると表れてきます。VTSでも、5回は行うことを原則としているのも、実践を重ねていると納得ができます。このことからも、私は中学校3年間で5回以上、このスタイルの鑑賞を行いたいと考えています。そして、見せたい5作品を厳選したいと考えています。
さて、2クラス目にも驚くような発言がありましたが、この報告は次回にしたいと思います。
対話型鑑賞の醍醐味について語っているつもりですが、だいごみの「だ」くらいは伝わっているのでしょうか?
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