伊丹十三作品に「お葬式」という映画があった。故人とそれを取り巻く金の亡者を描いた作品だったと記憶している。幾重にも折り重なった金糸銀糸の伏線はものの見事に人の「死」というものを捉え、その映像は他に比べることのできぬほど研ぎ澄まされており、美というにはあまりにも出来すぎていて、いっそ技巧に勝っていた。
死は生臭いものである。映画には臭の手立てがなく、またそれを求めるにはあまりに酷なことゆえ、伊丹は「お葬式」から巧みなことこの上なく血抜きをしてしまった。
美と醜は対義語であるとともに同義語でもある。
僕の体に着いた兄の死臭はしばらくとれないであろう。「お葬式」が終わり、四十九日を過ぎ、ようやく身から離れてゆくのかもしれない。
その頃には・・・ああ、言葉には魂が宿る。これより先は言うまい。何があっても言うまいと思う。
車内 N-02B
死は生臭いものである。映画には臭の手立てがなく、またそれを求めるにはあまりに酷なことゆえ、伊丹は「お葬式」から巧みなことこの上なく血抜きをしてしまった。
美と醜は対義語であるとともに同義語でもある。
僕の体に着いた兄の死臭はしばらくとれないであろう。「お葬式」が終わり、四十九日を過ぎ、ようやく身から離れてゆくのかもしれない。
その頃には・・・ああ、言葉には魂が宿る。これより先は言うまい。何があっても言うまいと思う。
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