ムネコマサン

写真付日記で~す。物忘れないうちにメモして、日々の出来事、アチコチ出かけコンデジ・一眼画像をアップしてます。

堂島の由来

2012-02-24 22:42:16 | まち歩き

先日、アバンザビル周辺をウロウロ アバンザ前の喫煙コーナーで一服した後、堂島薬師堂の案内板発見 こんなところに薬師堂があるのかな とおもいつつ アバンザの裏側へ おっ 線香のにおいがする すると奇妙な形の建物が 暗がりで形がよくわからないですが 表面がつやつやしたかばった円形の建物が 場所は北新地の南側 へぇー こんなところに薬師堂 調べてみると由緒ある薬師堂でした

西暦593年、推古朝のころの史料に「東は玉造に四天王寺をつくり、西の方洲の中に御堂を建立」の記録があるという。
また、延宝3年(1675年)に書かれた古文書「芦分船(あしわけぶね)」にも「聖徳太子が四天王寺創建時に、建築用材の運搬船が暴風雨で難破、洲の中に流れつきお堂を建てた」との記述があり、これが薬師堂の起源と言われている。
海上を航行する船から、このお堂がよく見えたところから、薬師堂のある島が「堂島」の地名になったとも言われている。

 夜の堂島薬師堂 ↓

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この堂島の北側にも川があり曽根崎川と呼ばれていたそうです 今は、影も形もないそうです古いOSAKAの地図を調べると確かに 堂島川の北側にもう一つの川の存在しています 

曽根崎川が無くなったのには大きな歴史がありました 明治42年7月31日ものすごく大きな火災が発生し、北区空心町2丁目付近から火の手が上がり24時間燃え続け37万坪ものエリア(東西約3.33km南北最大で約540m、消失戸数11,365戸)が焼け野原となったことがあります その時に発生したがれきを利用して曽根崎川を埋め立てとありました。

また、焼け野原となった空心町から桜橋にかけて市電道路が敷設され、明治44年7月に開通したそうです 今でも幅員の広い道路として国道1号線と2号線がありますが 明治43年の大火の結果で約100年前から変わっていなかったことがやっとわかった次第です

大阪市の北区をグルグルめぐるブログから引用させていただきました

ありがとうございます

参照URLhttp://kita-ku.jugem.jp/?eid=316

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大阪市の北区をグルグルめぐるブログは、なかなか見ごたえのある大阪市内の歴史など詳細に書かれおり素晴らしい内容です・・・・お勧めします