25日の読売新聞の「読売歌壇」に「島桜さき盛りおり岬の沖しずむ大和を知る人もなし」の歌が出ていました。
そして選者の岡野弘彦さん次のような評を見て昔のことを思い出しました。
戦艦大和は日本人が夢を託した幻の巨艦であった。敗勢歴然たる時、沖縄の守りに向かう途中、米軍千機(文のまま)の攻撃を受けて徳之島沖に沈没。一首は大和への沈痛な挽歌。
[私が見聞したこと]
私は終戦の年に現役兵として松山市の松山城の堀の中にあった航空教育隊に軍用機の整備要員として入隊しましたが、幸か不幸か内地勤務のまま8月の終戦を迎えましたが、その間に次のような経験をしました。
・飛行機の整備の訓練はそこそこに、近郊の丘にあった分遣隊で耕作に従事した。
今から考えると飛行機を整備しようにも、肝心の飛行機が不足していたのでしょう。
・航空隊員らしい仕事としては、2度ばかり(本土決戦用として)現役引退した飛行機を押して敵機の見えない所まで隠したこと
退役飛行機の性能を想像すると、当時の米国のB-29の高度にも達せず、速度にも追いつけないものばかりで、本土決戦のさいの敵軍の攻撃用にしか使え無かったと思います。
・その後、鳥取の軍用飛行場の警備に派遣された時、当時「赤とんぼ」と呼ばれていた、とても実戦に使えない初年兵向けの練習機が隠してあるのを見た。
これでは、地上戦に参加しても、地上から機関銃でも落とせるかも判らないものでした。
私の僅か4カ月足らずの間に唯一身をもって知らされたことは、日本の空軍は当時のゼロ戦のように優れた軍用機も持っていましたが、その層が如何に薄かったかと言うことです。
[日本の戦略の誤りと情報力不足]
戦争に参加された経験もある「読売歌壇」の選者の評に戻りますが、当時の日本は大艦巨砲主義で大和や武蔵などがその象徴的な存在でした。
米国も大きな軍艦を持っていましたが、空軍にも力を入れていたのが、日本の敗戦に繋がった一因でしょう。 (その他多くの戦略・戦術の誤りがあったと思いますが省略します。)
それと更に問題なのは日本の情報力の不足だったような気がします。
米軍の爆撃機のピンポイントの攻撃は有名ですが、それは戦前、戦時中の情報収集能力の高さを示すものでしょう。
それに比べて、日本軍の情報収集と分析での一番の誤りは、米軍の工業力の軽視または無視でしょう。
それを示すものが戦争開始直後の互角またはそれ以上の戦いでした。
つまり日米両国ともほぼ似た戦力を持ったいたと思います。
然し米国は戦争が始まって、その工業力で軍用機やガソリンを好きなだけ増産できたのに、日本は金属製品の供出や、ガソリンに代わる松根油の開発をする有り様で、戦争開始からしばらくの間に見る間に双方の戦力に大きな差ができたのでしょう。
陸軍で言えば、日本軍の移動は専ら重い荷を背負っての行軍、米軍はトラックなどによる移動、沖縄戦で見るようにケタ違いの武器や銃弾の生産能力の差。
私と同年代の間の話ですが、大戦前の米国中心とするABCD包囲網の圧力や国連での日本攻撃にじっと耐え、その間に日本の工業力を米国に負けないようになるまでて頑張っていたらと言う話が良くでます。
何故なら、朝鮮半島、台湾、樺太の領有権、満州での日本の権益は国際的に認められていたのですから、工業生産力強化の余地は充分にあった筈でし、日本の情報網がもしもっと完備しており、米国の生産能力の高さを良く知っておれば、どうしても戦争に突入するしか無かったとしても、それを遅らせると言う選択はあった筈ですから。
[平和日本の戦力の一つは情報力]
然し昔のことを幾ら蒸し返しても何にもなりませんし、時勢も変わりましたが、唯一反省すべきところがあります。
それは何度も繰り返しますが、情報収集能力と、解析力の強化です。
日本は多分米国の圧力もあったのかも知れませんが、安全保障だけでなく、情報まで米国頼りでした。
その結果は、米国が提供したガセネタで、日本は憲法解釈まで変更してイラクへ自衛隊を派遣しました。
参照:中東の紛争や戦争から学んだもの[日本人として恥ずかしかったこと]
そして、今でも北朝鮮の情報や、ミサイル発射の対応までの情報は米国頼りから抜けられません。
今回の米国発の金融・経済危機も日本の情報の収集解析力があれば、(米国が受け入れるか否かは別として) 米国への適切なアドバイスも出来たのかも知れません。
何しろ日本はバブル崩壊の経験済みだし、日本の銀行も他国に比べて被害が少ないのは、米国バブルの危険性を察知していたらかです。
日本は憲法で国際紛争の解決で武力を使えないし、そのためにその潜在的の圧力を外交にも使えない国(私個人は戦争はしないのは勿論ですが、これ位の武力を持つべきだと思いますが) で、純粋に外交力一本で進むしかありません。
そしてその外交の一番武器となるものは情報の収集と分析力です。
情報収集まで米国だよりでは、日本独自の外交を進めるどころか、今までのように米国追随外交を続けるのを余儀なくされると思います。
然し「中韓を知りすぎた男」さん も言われているように、肝心の米国がパートナーとして日本から中国へシフト仕掛かっているようです。
そしてその中国も今回の北朝鮮の核実験も、今までの同国への対応を見ると、今後どのように出るか判りません。
日本もそろそろ米国一辺倒から真の独立国として、米国・中国とも是々非々の付き合いをする時期に来ていると思いますし、そのための情報力の強化は欠かせないと思います。
日本でも安倍さんが所信表明演説で情報機関の設置を訴えましたが、その退陣でいつのにか話題にも乗らなくなってしまいました。
日本は世界大戦での貴重過ぎる経験を活かして、情報機関の設置強化を図るべきだと思うのですが。
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経済で検索していたらここにたどり着きました。
とても興味深い記事を書かれていますね。
私の友人ですが、こちらも面白い記事を書いているので、是非遊びに来てくださいね。
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アメリカと中共が「手」を結び日本を封殺、技術と金を引きだす道具に成りつつある事も明白でしょうに未だ「平和」「専守防衛」と遊んで居る日本の政治にも困ったものです。
大東亜戦争は日本を潰す目的がアメリカには有ったのですが、日本人の気の良さで日清・日露の延長位の「戦争観」これも情報戦の敗戦ですが、この「時代」に日本が有色人種として頂点に居た事でしょう。
一日も早く「普通」の国に成る事ですが現状を見ていると北朝鮮の「核」実験にも「抗議」・「暴挙」は許せない?許せなければ「どうするの?」対策なし。堪りません。
情報機関の設置は必要ですよね。
ぜひ安倍さんに返り咲いてもらって、実現していただきたいです
戦時中のお話は、とても勉強になります。
こういう話を、もっと若い頃に聞きたかったです。
同感!賛成!と思うこと多々。
小生、大正13年生まれ。
先月からブログ始めました。
おっちょこちょいの男です。
ご指導のほど、宜しくお願いします。
この度、たまたま貴方様の書き込みを拝見して、メールを差し上げました。
「松山市の松山城の堀の中にあった航空教育隊に軍用機の整備要員として入隊しました」とありますが、この部隊は正式名称「第三航空教育隊」、通称名「中部第571部隊」ではないでしょうか?
以前より、同部隊について調べています。健在の方にもお会いしてお話を伺いましたが、昭和20年4月以降の事がよく分かりません。
宜しければ、貴方様の体験談をお聞かせ下さったらと存じます。当方のメールアドレスは、t.ikeda@tau.e-catv.ne.jpです。
①入隊日はいつか?同年兵は何名入隊したのか?②所属は何中隊であったか?中隊長の氏名は?③松山にはいつまでいたのか?④松山ではどのような教育を受けたのか?⑤松山で空襲に遭遇した事はあるか?⑥城北練兵場には格納庫があって、航空機があったようだが、どんな機種の航空機が何機くらいあったのか?⑦当時、陸軍は愛媛県内に四カ所の飛行場(壬生川、松山東、松山西、宇和)を建設していたが、ご存知か?⑧記述によると、近郊にて農作業をしていたそうだが、どこで、どのくらい、何人くらいが、作業をされていたのか?⑨二度ばかり飛行機を押して隠したとあるが、それはどこでの体験か?⑩鳥取にはいつ派遣されたのか?一緒に派遣された人は何名くらいだったのか?⑪終戦はどこで迎えたのか?
どうか、宜しくお願い申し上げます。