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カーナビがウルサイ!

2015年03月22日 | 日記

今日はお彼岸の中日。義母の墓参りと、実家の父の墓参りに行きました。

高速を車で走っていたらカーラジオから「沢田研二さんの1年ぶりの新曲です、こっちの水苦いぞ」1年に1曲しか出さないのだから、1年ぶりは当たり前だろう・・・と思いながらも、おお~新曲が聞ける~!!ジュリ~♪
CDを聴くのは自発的だが、ラジオから聞けるのは偶然で嬉しいの

嬉しくて、思わずカーラジオのボリュームを上げているのに、車に同乗の母が横から
『ジュリーは週刊誌に書かれたらしいね。騒ぐファンがいるの?』
とぺちゃくちゃ、またもや例の話を持ち出してくる。 
もうあの話はいいの!私はゆっくり曲が聴きたいの!と心の中で叫び 母の質問には、いい加減に「そうそう・・・煩いファンが悪いの」と生返事をして、ラジオから流れるジュリーの歌声を、聞き漏らすまい!どういうふうに、聞こえるのであろうか?と、耳を澄ませているというのに 料金所近くでカーナビが

「左に行きます」 わかっとる!
「もうすぐ料金所です」 見えとる!
「100円払いました」 払わな出られん!

こちらの気持ちなどま~ったく斟酌しない、
職務にひたすら忠実なカーナビ

いちいちいちいち、次々次々、
度々度々、何度も何度も
途切れることなく喋り続ける。

ウルサイっての!
黙れカーナビ!
いちいち言わんでもわかる!
わたくしは今日ほどカーナビを呪ったことはない


めっちゃ、腹が立ちました!カーナビに・・
お陰で、殆どジュリーの声は静かに聞けませんでした(‐”‐) 
『こーっちのみ~ず 苦いぞ~♪』
まともに聞こえたのは、最後のここだけだった。


昔々、1970年代~ラジオ関西が4時から、毎日放送していた「歌声は風にのって」は土曜日は、発売されたばかりの新曲だけを流す番組だった。
音楽評論家が新曲について評論するのを聞くのがとても楽しみでもちろん、ジュリーが新曲を出すときは、どれだけ ドキドキして聞いたことか。
今日の車で聞いたラジオ関西の番組は、その後継番組の趣だったので、余計に昔を思い出して懐かしかった。


たいてい「今度の曲も売れるでしょうね~」という、アナウンサーの一言で
しめられていたが、一等賞の「追憶」のあとに出した「白い部屋」を紹介したとき「なんか前と同じ感じですね・・」という、女性アナウンサーの
期待外れ感いっぱいの言葉だけ、今も忘れないで覚えているのだった。 確かに、今も影の薄い曲です。


そういえば「勝手にしやがれ」の時は、評論家がいい曲ですね、と褒めてくれた。
「ロンリーウルフ」は、「ジュリーがとても歌に自信を持って歌っていますね」と
話していたっけ・・・


墓地に行ったら、ウグイスの声が しきりに 聴こえました。
寒緋桜
        

       

         

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京都・滋賀 いろいろかたり(サリー)

2015年03月22日 | 新聞・雑誌 記事

21日の京都新聞、京都のJ友様からです。
京都・滋賀  いろいろかたり



『若者に寛容で面白い』



映画やドラマで活躍する岸辺一徳さんは京都市で生まれ育った。
青春時代は仲間と連れ立って繁華街に繰り出した。

若者らしさを拒絶するのではなく、生かしてくれる街。
京都で生まれ育ってなかったら、今の僕はないかもしれません。

四条河原町をよく歩いていましたね。二条、四条の間を歩く。
その頃は17歳でした。
河原町は平気で歩けるけど、木屋町になるとちょっと 大人の気分
みたいなものがあって、さらに向こうの先斗町になると、なかなか
歩きにくい。ちょっとずつ、大人の何かが必要でね。
それで河原町をぶらぶら、ぶらぶら。しかも東側ばかりを歩く。
西側は歩いた記憶がないんです。この前も誰かと話していたんですけど
不思議ですね。よく行っていたパチンコ屋が東側ということも
あったんでしょうけど。夕方になると高島屋の前で仲間と待ち合わせして
(ダンスホールの)『田園』に行ったり、お金はないのにただ一緒に歩いたり人生でひょっとしたら、一番楽しかった時間かな。
若いっていうのはすごいなというか、仲間と会うことが
こんなに楽しいことはないっていう気分でした。

※その頃流行りのアイビールックで約180センチの長身を
包んだ岸部さんの写真が京都新聞に掲載された。
読者写真コンテストの入賞写真で、「踊る若者たち」
と表題がついている。

     
これ、京都新聞だったんだ。当時 何人かで植物園に
行って踊ってたんですよ。男女のグループで踊った
記憶がある。今で言うライブハウスやディスコに毎晩のように
行っていた頃ですから。17歳くらいですか。
背丈は今と変わらないぐらいですよ。

※やがて、ベンチャーズの来日を機に、沢田研二さんら京都の仲間と
バンドを組んだ。グループサウンズブームの波に乗り
ザ・タイガースは熱狂的な人気を集めた。

京都にいてもだめだなんて思って大阪に出て、そこからすぐ東京に行って
ワーっといろんなことがありましたけど、60年代の終わりから70年代にかけて、世の中は安保だ何だって大騒ぎしている時代でしたから「女の子相手にふざけて」なんて言われたり、僕らは音楽は世界共通だという認識でね、何も恥ずかしいことはないと。
その点で京都は面白い街ですね。エレキギターは不良の音楽みたいな時代でしたけど、意外に京都の人は、なんかこう いいように見てくれていた。
変なことをしているというのじゃなくて、面白いのが出てきたなって
僕らの周りは温かく見てくれた。(東京にも)行くなら行ってこいと応援してくれた。

※最近は同窓会などで京都を訪れることが増えた。

50を過ぎて、休みになるとふらっと京都に遊びに行くようになった。中学3年の時のクラス会で、同級生に会うのが楽しい時間になった。
ふるさとだし、街並みもあまり変わらないし、みんな60代になって肩書きがなくなって、学生の時のまんまに戻るんで。

※主演した新作映画「正しく生きる」には、京都造形芸術大の学生たちも
出演者や裏方として参加した。

初めてのことで、新鮮でいい経験になった。プロでない人は役を作り上げるのではないからこそリアルで、こちらの演技が浮かないように気をつけた。自分が初めて演じた時のことをふっと思い出しました。 あの中から、次の映画人が生まれて欲しい。
京都は何が生まれるか分からないところですから、そういう面白さがあると思います。


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