俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

障害者

2016-09-08 09:54:18 | Weblog
 豚小屋で起こった事件は豚小屋の中で解決すべきであり、社会全体の問題として捕えるべきではない。クズのような悪ガキが群がっていれば豚小屋に閉じ込めれば良い。人間のクズが集まって暴力集団を作れば社会から排除すれば良い。豚は自活力を持っていないから社会に寄生して生きようとするが、外にさえ出させなければ種族内で殺し合ったりして自滅する。彼らが豚小屋の中で共倒れをすることは彼らの勝手であり、豚小屋の外の住民が関与すべきことではない。治安維持組織の最も重要な仕事は豚を豚小屋から出させないようにすることだ。
 知的障害者大量殺害事件の植松容疑者は「障害者はいなくなれば良い」と考えた。いなくなる必要は無かろうが、彼らが自分の分を守ることは必要だろう。
 終末期の癌患者はホスピスへ、身体の自由を失った老人はホームへ、精神異常者は病棟へと収容される。自立することが困難な人は自らの意思で自らの行動範囲を制限する。自立できない人が無理に自立しようとすれば周囲に多大な迷惑を掛ける。視覚障害者が自動車を運転すれば多くの人が危険に晒される。たった一人の、週に1回も駅を利用しない盲人の転落防止のためにホームドアを設置するよりも、毎日多くの人で混雑する駅の安全性を高めるべきだろう。経済的合理性を無視してまで障害者の権利を優先すべきとは思えない。
 私はパラリンピックが嫌いだ。それはパラリンピックが不平等を容認しているからだ。車椅子での競技はほぼ平等な条件で競うから容認できる。しかし生身に近い競技の大半は許容し難い。前回の大会で競泳を見て怒りを抑えることができなかった。両腕を失った人が片腕の人と「平等に」競争させられていたからだ。両腕の無い人は頭でターンをしていた。これは不当だ。これでは泳ぐ距離に差が生じる。こんな不平等を許すべきではない。健常者はお互いに似ているが障害者は人様々であり障害の質も量も大いに異なる。腕の障害だけに絞っても、麻痺も欠損もある。しかも欠損の度合いは一人ずつ異なる。もし障害レベルごとにグループ分けをすれば参加者の数とほぼ等しいほどのグループが必要になり競争は不可能になる。競争させるべきではない人々を同じ土俵に乗せて競わせることは公正な競争ではなくただの見世物だ。これでは「障害者のためのスポーツ大会」とは言えない。いっそのこと原点に戻って「車椅子スポーツ大会」とすべきではないだろうか。
 視覚障害者を対象とする競技では全員がアイマスクを着用することによって障害のレベルを合わせることもある。条件を平等にできないままで競争させることはフェアではない。障害者を「障害者」として一括りにして個別性を無視することこそ障害者に対する差別なのではないだろうか。