俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

お節介

2016-09-18 10:12:57 | Weblog
 食道癌を患って以来、多くの人から色々な勧奨をされるようになった。民間療法であったり、健康法であったり、健康食品であったり様々だ。中には私が大学時代に好んだパスカルによる神の存在証を持ち持ち出す人もいるが、医療関係者からの真面目で科学的な推奨以外は総て門前払いにしている。
 最近では割と広く知られるようになったパスカルによる確率論に基づく神の存在証明とは次のようなものだ。キリスト教の信者には永遠の至福が約束されており、この教義が真実である可能性がたとえ一万分の1%であったとしてもその期待値は無限大になる(∞×1/1,000,000=∞)。こんな有利な賭けは他には無いのだから、どんな事情があろうともキリスト教徒になったほうが得だ、というものだ。同じ論法を使えるから癌を克服するためなら何にでもチャレンジするべきだと彼らは言う。
 40年以上前の時点ではパスカルによるこの証明は余り広く知られていなかったので私は頻繁にあちこちでい言い触らしたものだが、その後は様々な形で悪用されるようになってしまった。インチキ宗教や健康食品、あるいは「買わなきゃ当たらぬ宝くじ」などの「当たって砕けろ」式の所謂ポジティブ・シンキングの類いとしても乱用されている。バタフライ効果まで考えれば、私がこんな迷惑な勧誘方法の拡散に貢献してしまった可能性もあるだけに、私としては不愉快な記憶だ。
 この理屈が迷惑であるのは非科学の敷居を低くするからだ。否定されていないという理由だけで軽い気持ちで受け入れてキリスト教徒になってしまってから次々に試練が与えられてその内どっぷりと漬かってしまうことにもなりかねない。相手の敷居を下げさせて入り込む手口は今やFoot in the doorと呼ばれてセールスマンにとって必須のテクニックにまでなっている。宗教やイデオロギーにカブれている人の大半がそんな経験をしている。「お試し」のつもりで参加して酷い目に遭っている人は決して少なくない。こんな現状から断言できることは「とりあえずやってみることが大きな不幸を招く可能性もまたゼロではない」ということだ。その典型例がオウム真理教の信者だろう。
 誰でも1つや2つの迷信を持っている。もし100人からのそんな忠告を一々受け入れていれば身動きが取れなくなる。毎日ニンジンとキノコと納豆を食べ、7時には起床してジョギングをして腹式呼吸に励み、酒や煙草などは厳禁だ。取り敢えず受け入れていればこんな最大公約数的でくだらない漫画的な健康生活を強いられる。肉や酒の有益性と有害性についてはお互いに相容れない矛盾した提案を受けることになり、結局のところ自分の恣意的な判断に頼ることになる。
 アドバイスの中には有害なものも混じっている。無農薬・無添加食品や絶食療法などは有害である可能性のほうが高い。買わなければ当たらないと信じて宝くじを買い続けていればほぼ確実に貧乏になるだろう。
 他者依存によるこんな惨めな生活を避けるためには、信頼できる専門家以外からの無責任・無根拠な提案など一切無視するべきだろう。彼らの多くに悪意は無いだけに不本意なことかも知れないが、残り少ない余命を下手な鉄砲の試射場にしてしまう義務などあるまい。
 アドバイスする側も無責任な勧誘は慎んで、尋ねられたら答える、嫌がる素振りが少しでも感じられたら自重する、というぐらいの節度を持つべきだ。無知に基づく善意は個人的趣味の押し付けに過ぎないだけに迷惑この上無く、これを「余計なお節介」と言う。