俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

公平な競争

2016-09-14 09:55:36 | Weblog
 健康な人はお互いによく似ているが障害者は様々だ。視覚障害者だけでも無数のレベル分けが可能だ。軽度の近視や遠視から全盲まで、全盲以外は一人ずつが違ったレベルだ。白と黒の間に無数のグレーがあるように障害はそれぞれ質も量も異なる。人を健常者と障害者に二分することは余りにも乱暴だ。「障害者」と一括りにすることは障害者に対する差別なのではないだろうか。
 障害のレベルが違う人を、その差を無視して競わせることは全く不当なことだ。もし競わせたいのなら何らかの方法で障害のレベルを合わせてから競わせるべきだろう。
 比較的公平なのは車椅子やアイマスクを使う種目だ。これらによって障害レベルが異なる障害者が対等の条件で競うことが可能になる。こうすることによって障害のレベルから離れてそれぞれの運動能力を競うことが可能になる。パラリンピックの発端が「車椅子スポーツ大会」だったのは、それが障害者スポーツとして最も公平だったからだろう。それが拡張されて総合スポーツ大会になったが、競技の幅が広がることに比例して不公平による弊害が拡張して不愉快な見世物に変質した。
 折角アイマスクのような公平化するための道具がありながら不公平が放置されている種目が沢山ある。例えば視覚障害者の柔道で勝つのは比較的障害度の低い弱視の選手ばかりであり全盲や重度の障害を持つ人が入り込む余地は殆んど無い。こんなことで「障害者のためのスポーツ大会」と言えるのだろうか。障害の差を克服できなければ公平ではない。
 妙に「公平」に拘るのは私が社会常識といしての「平等」に疑問を持っているからだ。平等を理念として掲げるならそれを尊重すべきであり、最初から軽視するつもりならそれを理念とすべきではない。平等という理念は競争とは相容れない。
 自由と平等を両立させることは難しい。自由を尊重すれば平等は犠牲にされ、平等を実現するためには自由に対する制約が必要になる。そんな矛盾を全く感じずに両立できると主張する人は大嘘つきか偽善家だ。
 平等主義者は優れた人にハンディを負わせようとする。体の大きな人や力の強い人には錘を背負わせようとする。しかしそんなことをすれば全員の力が均等になって競争など成立しない。つまり平等主義の元では競争が否定される。障害者による競争を成立させるために必要な理念は平等ではなく公平性だ。公平な条件の元で競争をすればその結果は不平等になるが、この不平等は「格差」と言い換えられて、平等が作り出す問題が曖昧にされている。
 私がイメージする理想の障害者スポーツ選手は「盲目のイチロー」だ。流石のイチロー選手でも視力を失えばアスリートたり得ない。しかし盲目であっても彼の身体能力は抜群でありその才能を発揮させる機会としてパラリンピックがあるべきだろう。多くの長所を持ちながらたった1つの障害のためにその能力を発揮できない人々が活躍する場をパラリンピックは提供すべきだろう。だからこそ軽度の障害者が重度の障害者よりも有利になるようなルールの元で競わせるべきではない。障害の差ではなく障害を取り除いた場合のそれぞれの運動能力の優劣が競われるべきだ。