現実の殆んどが当然の結果か不本意な結果に繋がるが、fictionでは最高の結果に繋がる。だからfictionのほうがfactよりも圧倒的に面白い。小説やドラマのようなfictionの市場がfactの市場よりも圧倒的に大きいのはこんな事情があるからだろう。
プロ野球のペナントレースにおいてセリーグは広島が優勝した。これは否定できない事実だ。しかし他のチームのファンにとってこれは面白くない。ところがfictionにおいてならどのチームを優勝させることも可能だ。事実を認めたくない人は幾らでもfictionの中で優勝の美酒を味わうことができる。
パリーグは未だ優勝チームが決まっていない。だからその間、日本ハムとソフトバンクのファンは好きなように予想をすることができる。事実が確定しない内は可能性がある限りどんな予想をすることも許される。
一般に事実は1つだが嘘は無数に可能だ。空想の世界であれば、織田信長が本能寺の変で死なず、中国の明を倒し更にロシアを経由してヨーロッパに至る史上最大の帝国を築いたといった荒唐無稽な話をでっち上げることもできる。
こんな歴史の大転換ではなく身近なことの妄想ならもっと易しい。空想の中では誰でもヒーローになれる。つまらない日常の裏には波瀾万丈のドラマが潜んでおり、空想の世界を意のままにできる。空想は事実よりも素晴らしい。似顔絵に描かれた姿は写真よりも美しく、事実に基づくnonfictionよりも適度に脚色したfictionのほうが面白い話になる。だからテレビの歴史ドラマは脚色だらけ・嘘まみれになる。
現実はドラマチックではない。サラリーマンであればいつものように家を出て何のトラブルも無く電車に乗り職場ではルーティンワークに就いて帰宅する。その間、特筆すべきことは何も起こらない。ドラマならそうではない。電車に乗れば別れた恋人に出会い職場ではトラブルに巻き込まれる。たとえ食事中であってもきっと何かが起こる。
fictionであればこれらの事件が予定調和の如く上手く収束する。作家は読者・視聴者に満足を与えるために原稿を書くから物語は決して期待を裏切らない。
人は現実に直面しようとしない。現実は醜いしつまらない。大半が期待外れに終わる。
プラトンは詩人(作家)をアテナイから追放しようとした(「国家」)。それは詩人が面白くて有害な物語を作るからだ。現実を直視するのではなく勝手な空想世界で甘い夢を語るからだ。
現代人もまた現実を直視したがらない。社会問題に取り組むことよりも空想やゲームの世界で総てが解決されることを望んでいる。fictionの世界で幾ら解決されても現実は何1つ変わらない。
fictionに浸ることは逃避だ。そんなことで時間潰しをするよりも現実を直視すべきだろう。たとえ娯楽であっても現実を回避すべきではない。現実回避を奨励するfictionは総て有害だ。
プロ野球のペナントレースにおいてセリーグは広島が優勝した。これは否定できない事実だ。しかし他のチームのファンにとってこれは面白くない。ところがfictionにおいてならどのチームを優勝させることも可能だ。事実を認めたくない人は幾らでもfictionの中で優勝の美酒を味わうことができる。
パリーグは未だ優勝チームが決まっていない。だからその間、日本ハムとソフトバンクのファンは好きなように予想をすることができる。事実が確定しない内は可能性がある限りどんな予想をすることも許される。
一般に事実は1つだが嘘は無数に可能だ。空想の世界であれば、織田信長が本能寺の変で死なず、中国の明を倒し更にロシアを経由してヨーロッパに至る史上最大の帝国を築いたといった荒唐無稽な話をでっち上げることもできる。
こんな歴史の大転換ではなく身近なことの妄想ならもっと易しい。空想の中では誰でもヒーローになれる。つまらない日常の裏には波瀾万丈のドラマが潜んでおり、空想の世界を意のままにできる。空想は事実よりも素晴らしい。似顔絵に描かれた姿は写真よりも美しく、事実に基づくnonfictionよりも適度に脚色したfictionのほうが面白い話になる。だからテレビの歴史ドラマは脚色だらけ・嘘まみれになる。
現実はドラマチックではない。サラリーマンであればいつものように家を出て何のトラブルも無く電車に乗り職場ではルーティンワークに就いて帰宅する。その間、特筆すべきことは何も起こらない。ドラマならそうではない。電車に乗れば別れた恋人に出会い職場ではトラブルに巻き込まれる。たとえ食事中であってもきっと何かが起こる。
fictionであればこれらの事件が予定調和の如く上手く収束する。作家は読者・視聴者に満足を与えるために原稿を書くから物語は決して期待を裏切らない。
人は現実に直面しようとしない。現実は醜いしつまらない。大半が期待外れに終わる。
プラトンは詩人(作家)をアテナイから追放しようとした(「国家」)。それは詩人が面白くて有害な物語を作るからだ。現実を直視するのではなく勝手な空想世界で甘い夢を語るからだ。
現代人もまた現実を直視したがらない。社会問題に取り組むことよりも空想やゲームの世界で総てが解決されることを望んでいる。fictionの世界で幾ら解決されても現実は何1つ変わらない。
fictionに浸ることは逃避だ。そんなことで時間潰しをするよりも現実を直視すべきだろう。たとえ娯楽であっても現実を回避すべきではない。現実回避を奨励するfictionは総て有害だ。