俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

不快と苦痛

2016-09-17 09:58:11 | Weblog
 意識が無ければ痛みを感じない。最も極端な例は麻酔を使った手術であり、麻酔によって意識を失った患者は手術中も手術後も痛みを感じない。意識を失ったまま術死する患者は何の痛みも感じないまま死ぬ。泥酔している人も痛覚が鈍る。酔っ払いは怪我を余り気にしない。プラシーボ効果もノーシーボ効果も先入観が意識に影響を与えるから起こる。
 殆んどの子供は注射を怖がるが、彼らが本当に怖がっているのは注射の痛みではなく針を刺すという行為だろう。だから彼らは注射の痛みとは不釣合いなほど泣き叫ぶ。事故による同等の傷であればあれほど騒がない。
 激痛だけではなく人々が鈍痛まで怖がるのは本能の指示に基づく。本来、鈍痛は耐えられないほどの痛みではない。鈍痛が本能を刺激するから軽度な痛みまで恐れさせる。
 痛みは本来警鐘だ。ここが傷んでいる、ここを保護せねばならない、という情報だ。だから痛みがあれば人は必要以上に警戒する。それは痛みそのものではなく、痛みが本能に働き掛けることによって作られた恐怖があるからだ。鈍痛そのものは大した苦痛ではない。鈍痛は本能を刺激し刺激された本能が感情を動かすから大きな苦痛であるかのように錯覚する。
 不快感は必ずしも苦痛と感じられる訳ではない。ステントを装着する前であれば、私は多少の鈍痛があっても泳ぎに行ったものだ。しかしステント装着後はそれまでは不快感に過ぎなかった鈍痛が苦痛に変質して泳ぐ意欲を失わせた。もう治らないという意識が、鈍痛に対する評価を不快感から苦痛に変えた。
 子供の頃から私はずっと下痢体質だった。ところが抗癌剤治療をきっかけにして便秘体質に変わった。初めの内はこれを喜んでいた。トイレのために使われる無駄な時間が減ると思ったからだ。しかし2週間以上便秘が続くようになると評価を変えざるを得なくなった。下腹部の膨満感や排便時の痛みを経験することによって便秘を警戒するようになり当初のように無邪気に肯定できなくなった。
 初めての飲酒は決して快適なものではなかろう。体温が上昇して思考力が低下するのだから風邪の初期症状のようなものだ。これは決して快適ではない。これを心地良く感じるためには価値評価を逆転させる必要がある。飲酒時の軽い脳機能の低下を快適と感じるようになって初めて飲酒が楽しくなる。
 鈍痛などの軽度の不快感の大半は決して耐え難いレベルではない。鈍痛の位置付けが変わることによって不快から苦痛へと変質する。マゾヒストになる必要は無いが不快を受け入れることができれば苦痛が減少する。不快を恐れず毛嫌いさえしなければ不快との共存は可能だ。最早回復不可能な慢性的な不快に対して神経質であることは近所の騒音に過敏であるようなものだ。不快を許容できるようになれば苦痛が減少し、不快に対する不寛容は苦痛を増幅させる。