俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

障害者のスポーツ

2016-09-19 09:53:05 | Weblog
 パラリンピックの走り幅跳びを見ていてこんなことを思い出した。
 オリンピックの参加資格が「アマチュアであること」だった時代にこんなエッセイを読んだ。「20xx年からオリンピックの参加資格が大幅に緩和されて『人間であること』とされた。100m走の決勝に残ったのはいすれ劣らぬ超人ばかりになった。流石にジェット噴射までは認められないが、サイボーグや、薬によって徹底的に培養して作られた人、遺伝子操作による新人類、スポーツエリートを厳選してその人工交配によって生まれた超スポーツエリート、あるいはチーターと共に育てられて走ること以外何一つ学ばなかった野生人等、実に様々な顔ぶれとなり、3mを越える巨人もいた。レースは4本足で走るチーター男がスタート直後は先行したが最新のメカによって強化され尽くしたサイボーグ選手が圧勝した。優勝タイムは3.0秒だった。」
 こんな粗筋の寓話から始まって当時のステート・アマ制度を皮肉っていたが、今こんな話を聞けばパラリンピックに対する皮肉のように思える。アマチュアであることを障害者であることに置き換えればパラリンピックは非常に奇妙な見世物と感じられる。
 障害者であるということだけが条件であれば技術競争の場になる。選手ではなく補助器具の優劣が勝敗を決めるからだ。F1が自動車の性能競争であるようにパラリンピックは補助器具の競争の場になる。
 そんな競争になれば、時間を掛けて個人の能力を高めるよりも、その器具さえあれば誰でも超人になれる着脱自在な強化スーツが注目されるようになるだろう。その時点では参加者を障害者に絞る必要性など失せてしまう。最早スポーツでさえなくなって工業製品の品評会になってしまう。
 パラリンピックは既に工業技術を競争するたの場になっている。1台1500万円と言われる競技用車椅子はあらゆるスポーツ大会で使われる補助器具の中で最も高価だろうし、走力やジャンプ競技に使われるオーダーメイドの義足は勝敗の鍵を握る。何とも贅沢な競技だから、補助器具の市場が巨大な先進国でスポンサーを見付け出さない限り勝ち目は無い。
 パラリンピックの選手は2種類あり、先天的障害者と後天的障害者だ。後天的障害者は更に2種類に分けられ、交通事故の犠牲者と戦争での被災者だ。戦争での被災者は被災した市民と負傷した兵士に2分できる。常に戦争を続けているアメリカの場合、負傷を負った兵士の社会復帰が大きな社会問題になっており、障害者スポーツは重要な就職先になっているようだ。重い傷を負った兵士のための第二の人生の場まで提供するとは何と凄い「福祉大国」なのだろうか。ここまで配慮されているからこそアメリカ人は遠い異国まで出掛けて障害者になることさえ厭わずに「死の商人のために」戦うのだろう。