俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

徴候

2016-09-30 09:54:21 | Weblog
 25日(日)の夜、肺炎で病院の救急外来に駆け付けたが、病気に対してこんな下手な対応をしたのは初めてだ。夜になってから苦痛に耐えられなくなって医師や薬剤師などを振り回すなど全く恥ずかしい話だ。常識ある人間なら昼間の内にもう少し対処しておくべきだったと反省している。しかしいい歳をしてこんな失態を演じたのは全く理由が無いままではなく多分2つの特殊要因が絡んでいる。1つは癌と癌治療による体質の変化であり、もう1つは鎮痛剤の常用が招いた体内のセンサー機能の劣化に気付かなかったことだ。特に後者の影響が大きかったように思う。
 肺炎の徴候は17日(土)辺りから現れていたようだ。喉の調子が悪く会話にも不自由するほどだったが、私は健康だった頃と同じように放置した。自然治癒力を過信していたからだ。ところが20日(火)辺りから微熱が出始めた。しかしこれも放置した。25日(日)になって38℃越えが出るようになってから初めて焦るという泥縄ぶりだった。
 今から考えれば17日の時点からこれら以外にも肺炎の徴候があった。何度も訪れた気付くためのチャンスを悉く見逃してしまったのは癌発症以降に私の体に生じた体質の変化を軽視したからだろう。
 癌が発症するまで私の体は大切に扱われていた。放置していたことがなぜ「大切に扱った」という評価に繋がるのか疑問に思われるかも知れないが、対症療法を避けることはほぼ確実に有益だ。治療効果の無い対症療法薬による副作用が病気そのものに加わることと比べれば、病気に罹ってもそれに手を加えずに放置したほうがずっと良いのは当たり前だろう。
 私の体は免疫力の低下だけではなく警報センサーまで劣化していた。免疫機能が充分に働かなければ微熱や軽度の不快感などを通じたセンサーの機能も鈍くなる。だから免疫力の低下が原因になって危機感知力も低下する。それだけでは済まない。鎮痛剤が痛みや発熱を誤魔化してしまうから私の体のセンサーはズタズタ・ボロボロの状態になっていた。こんな状況では病に対して多少神経質になる程度では全く不充分であり、自分の体が発病し易くしかもそれを感知しにくくなっていることを自覚してそれなりに慎重な生活を心掛けねばならない。
 薬の副作用はまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」の喩え話のように無限に連鎖する。そればかりではなく薬は他者にまで感染する。少なくとも環境を汚染する。薬は最も身近にある毒物だ。食品添加物の毒性とはレベルが違う。