隠れキリシタンとお納戸様
作: 界 稔
翌晩 八之進は日課にしている小太刀の型修練を一通り終わり、月明かりの中を村に向かい浜辺を一人あるいていた。
浜茄子の砂丘の向こうから、提灯の明かりが近づいて来る、相手からは八之進は月明かりとは云え、見えないらしい。
漁師の朝は早い、当然夜は早々と灯りが消えてしまうのが常である。 この時間に外に人影があるのも意外な気がした八之進は無意識に打ち寄せる浜辺の砂に身を隠すように腹ばいになった。
人影は女一人である。 そのままやり過ごした八之進は、その人影が加奈のように見えたこともあり、夜分女一人で・・・・と、後を追うことにした。
打ち寄せる波の音と砂浜が八之進の足音を消してくれた。 砂浜が切れて岩肌を波が洗う岬へ続く坂道を提灯の灯りが登っていく。
「 たしか、この上には小さなお寺とは名ばかりの祠が在るばかり・・・・。」
提灯の灯りが上りきって下から見えなくなった後、八之進は坂を上った。 祠の前の石灯籠の二基に灯りが点いており、祠の中からも灯りが漏れているのが見えた。上がり框には何人分かの履物があった。微かに声を合わせて謡っているような音が聞こえてくる。
八之進がもっと近づこうとしたとき、祠の縁下に蹲る人影を見た。その人影は祠の中を窺うような様子で八之進には気がついて居ないようである。
「 源次だ! 」 八之進はとっさに身を隠し、
「 何で源次が・・・・、祠には誰が・・・、何をしているんだ・・・」
詠っているような声が途絶えて、密やかにくぐもった語り口の話し声が時々聞こえてくる。
源次の姿が縁の下から見えなくなった。
祠の扉が開き、中から村の見知った人影が出てきた。武吉の屋敷で八之進の身の回りを手伝ってくれる辰じいさんと加奈の姿も在った。
彼らは一人、二人と静かに帰って行く。
最後の二人が灯りを消して立ち去るのを見送り、月明かりを木陰で避けながら、小半時も待った。
祠の後ろから源次が這い出てくる。辺りを見回し、祠の中に入り灯りを点けた。
源次が祠の扉を開けて出てきたとき、手に何かを持っているのを見た八之進は、今度は源次の後を追った。
源次は来た道とは反対側へ行く。岬の方に出るらしい。辿っていくと昨日源次と出会った社に出た。
源次はそのまま、社の中に入り込み、直ぐ出てきた。 祠から持ち出した物を社に隠し置いたものと思えた。
八之進には加奈や辰爺さんの身に災いの降りかかる物のような気がした。 それは一幅の掛け軸であった。観音様が赤子を抱いた絵柄である。変わっているのは十字の首飾りを着けていることであった。
「 耶蘇教だ・・・」
加奈や辰爺さんの集まりが何であったか、八之進にも得心できた。そして、源次が何を探り回っているのかも・・・。<o:p></o:p>
作: 界 稔
序章
徳川300年の幕藩体制下、米作中心の生産体制と現実の貨幣経済との矛盾あるいは、各藩への窮乏化政策である参勤交代や幕府特命の各種土木工事などにより、西国の雄藩 薩摩と言えどもその藩財政は困窮を極めていた。 これは、どの藩も似たり寄ったりであったが、薩摩というところは米作に不向きな火山灰生成によるシラス台地がほとんどの土地を占めていたため、表向きの石高に関わらず、実際は思ったほどの石高は取れなかったのが現実であった。 下層農民の逃散や散発的な一揆押しかけは、日常化しつつあったし、藩主の日常賄いもたびたび制限される事態となっていた。 また、藩主交代に当って、藩政改革を求めた近思録事件が起こり、切腹13名を含む100名余の処分者を出す騒ぎが起こった。 時の藩主斉興はこれに対し、財政に明るい調所笑佐衛門広卿を家老に抜擢し、藩財政の建て直しを命じていた。
後代の不評はあるが、この調所は本当のところ大変な名家老と言えよう。
幕末薩摩の勇躍を支えたのは、この時代の財政建て直しの功によるものであるといっ ても過言ではない。 貨幣経済の現実に合わせて、換金作物の栽培、生産と物流を含めた交易体制の整備は必須改革要項であった。 中でも奄美地方の砂糖キビ栽培とその搾取政策は、その販路の独占により、莫大な利益を生んでいった。 また、大阪や江戸の御用商人からの借金の棒引き、踏み倒しに近い契約を粘り強い交渉の末に結ばせたりしていた。
一方、西国辺境の地であり、近年盛んに出没する外国船の影響も見逃せないのだが、鎖国と厳しい隠密、目付けの監視政策にもかかわらず、外国との密貿易も大きな財政確立の柱となりつつあった。 元来、薩摩は300年前の関が原の合戦にあるように、徳川への反抗心は伝統的なものであった。 辺境にあることと、その剛猛な軍団を刺激したくない幕府の思惑から外様としては破格と言える石高と領地を保障されていたが、この反面厳しい監視の下に置かれていたのは当然であったろう。
鹿児島は今でも特異な地方語健在な地域である。抑揚の違いや単語の特異性はは隣の熊本や宮崎、沖縄とも極端な違いを示している。
人為的変造の匂いがするくらいである。地元の古老によるとよそ者、特に幕府隠密との判別をし易くするために、言葉を変えたのだと聞いたことがあるほどである。
このような、土地柄である幕府隠密も中々入り込めなかったものであろう。
よって、砂糖キビや蝋燭、養蚕、葉タバコなどの換金作物の生産の奨励政策も本来は幕藩体制の下ではままならないはずであったが、一躍殖産繁栄したものであった。
このような交易材料を担保に御用商人の借金長期返済契約を勝ち取ったり、新たな借金を強奪的に契約したりの、豪腕家老であった。
一方、密貿易は東シナ海に面し天然の良港を多数持つ薩摩である。
北薩摩の川内川河口の寺泊や阿久根、甑島や薩摩半島の山川、枕崎、坊津など、主に朝鮮や清の海賊まがいの密輸船が出入りしていた。
また、香港、マカオからのオランダ船や近年姿を現しだした英仏米艦隊の琉球出入りも鎖国崩壊を見るようであった。
事実、島津重豪の時代には、航海物資の補給を名目に、度々外国船が訪れ西洋の文物が流入したもので、西国領主や京都公家衆の間で珍重物流したのであった。
ここに注目したのが調所であり、支那やマカオを経由して取引される付加価値の高い密貿易品に焼き物があることを知る。
支那や朝鮮白磁に代表される白磁器は近世ヨーロッパで大変な人気を博していた。
ボーンチャイナと称されるヨーロッパ磁器の一世紀以上前史には、景徳鎮を初め李朝白磁などが盛んに製作されたものであった。
これはヨーロッパ貴族の愛好するものの代表的な焼き物であり、後世のヨーロッパの焼き物にも多大な影響を与えたのである。
薩摩には、秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮白磁に憧れた時の島津義弘が、朝鮮陶工を捕虜、連行して開窯させた薩摩焼があったものの、本場の白磁には及ばぬものであった。
もともと、磁器は陶器と違いガラス質を多く含む陶土、正確に言えば陶石を砕いて粉末にしたものを原料にし高温釜で焼成する、より高度な技術を必要とする焼き物である。
このガラス質の為に、硬度が高く薄い器の製作も可能であり、より透明感のある白焼き物が焼成できるのである。
この時代、磁器の生産が盛んに行われたものに、有田が在った。
密貿易船からの情報に、この有田の磁器が珍重されていることを知った、調所は薩摩の各窯元の陶工陶首を手厚く保護して殖産興業を図ったのである。
伊作家当主の佐衛門へ隠密な下命が在ったのも、このような状況下であった。
伊作家は陶工窯元を束ねる名主職を代々、務める家柄で、士分とはいえ、多くの使用人を抱えて自らも陶窯を営んでいた。
佐衛門には、嫡男の作衛門の他七人の子供が授かったのだが、二人の娘と末っ子の八之進の四人を残し、後は若くして病没していた。妻の徳江も末の八之進の産褥中に身まかっている。
当主の座を跡取りに譲り、後はのんびり老後をと、思っていた佐衛門にとって、昨今の藩政改革の動きや藩上層部の陶器への関心の変化に、異変めいたものを感じていた矢先である。
「佐衛門さあ、息災そうでなによいじゃ。
窯場ん様子はどげんじゃろかい。 盛んじゃっとじゃろな! 顔をあげやぃ。」
鹿児島城下の勘定方役宅に突然呼び出され、緊張の面持ちで平身低頭している佐衛門に、声を掛けたのは勘定方家老の伊地知である。
「あいがとございもす。お陰さあで、職人達っも励んで呉れもんで、何とか御用もできもしと。」
「そげんな。それぁ良かした。
佐衛門さあもヨカ年成いやしたなぁ、どしこ成いやしたな?」
「もう、58じゃいさぁ、後取いの作衛門に譲っせえ、ゆっくいしたかと思いもす。」
と、問答を交わしたところで、伊地知が真顔になり、「ところで 」と、話したのが、4男の八乃進を御用に取り立てるから了承せよとの事であった。
雪山登山編
もう成田を出てから4日目の10月8日になる。
待望の登山日である。 午前7:50台北を出発、雪山トンネル⇒宜蘭⇒武稜農場経由(此処でしゃぶしゃぶ昼食)、雪山登山口に着いたのはPM2:10であった。
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ここから、1時間50分の行程で七下山荘泊まりとなる。
祝日前日ということもあり蚕棚の下段を占拠し、台湾初めての山小屋体験である。ウレタンマットの床敷きで整備された居室と別部屋に食堂があり、美味くは無いが数種の料理がバイキング形式で提供される。洗面所も豊富な水量の水道が完備していて清潔である。
ここまでの行程での遅延者を、このまま登山続行可否の判断を迫られ、結果、ガイド一人を同行させ下山説得と結論した。全員登頂は出来なくなったが、パーティ全員の遅延リスク回避の為には、仕方の無い判断となった。
10月9日(5日目)
夜中の“ねずみ”出没騒ぎも有ったが、早朝3:00起床、4:00出発、雪山東峰直前で朝日を観て、369山荘経由で、雪山主峰登頂は11:30であった。
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日本より低緯度の為か森林限界が高く、3000メートル近辺でも巨木の樹林帯が続く。取り付きのカールまで来ると高山の雰囲気となり這松地帯となる。ガレ場を乗り切ると突然山頂となった。目の前の北峰が、濃霧のために目まぐるしく見え隠れした。3886mの山頂で昼食後、369山荘へ。
14:20山荘到着。 持参の高粱酒で登頂の祝杯。
山小屋は、昨日と打って変わって、大混雑である。国慶節の連休に当たり、若者中心の登山客が、続々と上ってくる。台湾では登山年齢が、まだまだ若い。と、いうより社会自体が高齢化社会では無いだけかも知れない。 流石にこの夜は“高いびき”に眠れぬ夜であった。
10月10日 (6日目)
369山荘下山開始 午前5:00
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帰りは早い。ガイドの陳劉氏を最後尾にして七下山荘7:50、武稜登山口に8:40到着、登山終了となった。
武稜農場の売店で登山記念のTシャツを購入し、次の登山目標の南湖大山の登山口“思源”を経由して、宜蘭で昼食となった。
総勢13名の登山隊であるが、玉山、雪山の2峰で帰国予定が9名、残りの4名が南湖大山を目指す。<o:p></o:p>
秋色深まる候 ご清栄にお過ごしの事と、お喜び申し上げます。 さて、先日、礁渓滞在中には大変お世話になりました。 私ども一同、10月19日夕刻、東京に無事帰国いたしました。 台湾は全員が始めての訪問でありました。 当初目標の玉山登山が天候の都合とは云え、頓挫したことは残念でありました。 しかし台湾滞在中に数多くの出会いと人々の優しさに触れられたことは、この旅に大きな充実を与えてくれたと思っています。 旅の途上の小さなエピソードの中に、台湾の人々の細やかで優しい気質が感じられたし、車やバイクの運転にも人を思いやる社会全体の倫理観が現れていると思いました。 例えば、礁渓から台東への車中、私が食事中に咳き込んだのを聞いた前席の学生グループの中の一人が「大丈夫ですか?」と咳止め飴を差し出してくれたし、学生グループが旅の楽しさから一寸大きな声になったのを“大声で一喝注意”した中年の人士が、私の降車時には荷下ろしをさり気なく手伝ってくれたこと。 台東の街中で道に迷っている私に、通じぬ言葉に困惑しながらも丁寧に最後まで道案内してくれたコーヒー店の店員さんなど等。 このことは、嘗て日本人の中にも有ったもので、今ではもう失われてしまったもののように思えたものです。 これに加えて、陳 渢緹さんの”もてなし“には、感謝感激の表現以外にありようも無いものでした。 不遜にも宿泊費のデスカウントを要求した私たちに、一生懸命に値引き対応してくれた上に、終日観光案内や駅までの送致、果てはチケット手配と料金の負担、中々体験できない仏教大学レストランの精進料理饗応など、まるで私たちは陳さんの親戚になったような思いでした。 私は、このような“もてなし”にどの様に応えれば良いのか?判りません。 今は、ただ感謝の気持ちを伝える事しか思い付きませんが、その感謝の言葉も上手く使えない不自由さです。 そこで私の北京語の先生であり友人でもある楊さんに、翻訳して貰いました。 私の最大限の感謝の気持ちが伝われば幸いです。 そして、陳さんに気に入って貰えるのか判りませんが、感謝の気持ちを込めて“ ”を送ります。 少ない期間での触れ合いでしたが、陳さんの言葉にも有りました大切な仏縁なのかもしれません。 是非、また、お会いできる機会を待ちたいと思います。 御身、ご自愛なされて健やかにお過ごしなされますよう、お祈りいたします。 先ずは、お礼まで 2013年10月22日
お粥とその他バイキングで凡そ40nt$
陳オーナーにご馳走になった佛教大学レストランの精進料理 美味しかった!!
陳オーナー自ら案内してくれた五峰旗大瀑布
亀島を望む海岸で遊ぶ
陳オーナーにプラットホームまで見送られ、台東へ出発します