「自分が実行していることは、産地には必要なことなのだろうか」
自分は10年以上前から、産地が元気になること、産地が活性化することを考え続けて、頼まれた全ての産地を拒絶することなく受け入れ、ブランド米を作り続けていた。
消費者に、産地の存在や、産地が実行している内容を伝える程度なら、産地と消費者を結ぶ橋渡しとして、前向きに努力をしている米屋なら出来ることである。
しかし、産地の将来に影響するブランド化を手伝うということは、中途半端な気持ちでは出来ることではない。
中途半端な気持ちで手伝ってしまうと、産地を引っ掻き回してしまって、さらに悪いほうへと引っ張って行ってしまう可能性があるからだ。
だから自分は、自分の生活を捨ててまで、産地のためにと動いてきたのだが、ここにきて、「もしかしたらこの考え方は、間違っていたのではないか」と思い始めている。
もともと、産地のことは産地が考えて行うことであって、自分が手伝わなければならない理由はどこにもない。
手伝ったところで、どんなに産地のためになったとしても、最後は自分の存在は不必要となり、産地からは忘れ去られるだけである。
それが判っていて、なぜ自分の生活までを捨てて、手伝わなければならないのか。
なぜ手伝っていたのか。
今、その理由が判らなくなってしまっているのだ。
もうじき、いつものように玉川島屋へ納品に行かなければならない。
だから本当なら、少しでも寝ておかなければならないのだが、また今日も、このことが頭の中を駆け巡りまわっていて、寝ることが出来ない。
来年は自分にとって、最も大きな分岐点の年となる。
だから、このことについても、じっくりと考えてみようと思っている。
自分は10年以上前から、産地が元気になること、産地が活性化することを考え続けて、頼まれた全ての産地を拒絶することなく受け入れ、ブランド米を作り続けていた。
消費者に、産地の存在や、産地が実行している内容を伝える程度なら、産地と消費者を結ぶ橋渡しとして、前向きに努力をしている米屋なら出来ることである。
しかし、産地の将来に影響するブランド化を手伝うということは、中途半端な気持ちでは出来ることではない。
中途半端な気持ちで手伝ってしまうと、産地を引っ掻き回してしまって、さらに悪いほうへと引っ張って行ってしまう可能性があるからだ。
だから自分は、自分の生活を捨ててまで、産地のためにと動いてきたのだが、ここにきて、「もしかしたらこの考え方は、間違っていたのではないか」と思い始めている。
もともと、産地のことは産地が考えて行うことであって、自分が手伝わなければならない理由はどこにもない。
手伝ったところで、どんなに産地のためになったとしても、最後は自分の存在は不必要となり、産地からは忘れ去られるだけである。
それが判っていて、なぜ自分の生活までを捨てて、手伝わなければならないのか。
なぜ手伝っていたのか。
今、その理由が判らなくなってしまっているのだ。
もうじき、いつものように玉川島屋へ納品に行かなければならない。
だから本当なら、少しでも寝ておかなければならないのだが、また今日も、このことが頭の中を駆け巡りまわっていて、寝ることが出来ない。
来年は自分にとって、最も大きな分岐点の年となる。
だから、このことについても、じっくりと考えてみようと思っている。