広島原爆記念日8月6日を迎え、最近注目した言葉
1 スティーブン・オカザキ監督
「ヒロシマを話題にすると、正直なところ米国人の8
割の人は会話をやめ、話題を変える。この話題は心を
落ち着かなくさせるんだ。」
「原爆投下は多くの米兵や日本人の命を救うために必
要だった、という説を信じている人が、米国にはまだ
大勢いる。信じていない人も多いが、そんな人でも原
爆のことを話題にはしたがらない。話がヒロシマやナ
ガサキとなると、自分たちが非難されると感じるんだ。
根底には、罪悪感が入り混じった複雑な感情があるよ
うに思う。」
(被爆者の声を伝えるドキュメンタリー映画を製作中。
朝日新聞 8 / 3 / 05 )
私(投稿者)がBYUに留学していた時、ある理知
的に見える学生が私を夕食に招き、いろいろ話をして
いたとき、彼はアメリカがヒロシマに原爆を落とした
ことについて心から謝りたいと述べた。上の引用はこ
の学生の心を説明するものであるように思われる。私
はこのような人がアメリカにいたことに驚き、感激し
たことを覚えている。
この頃は少なくなったように思われるが、モルモン
教会の米国本部から教会幹部が教会指導のため広島を
訪れることがある。地元の教会員は彼らを(あるいは
夫人たちを)観光に案内するわけであるが、原爆記念
資料館を訪問する人とそれを避ける人があると聞いた。
地元の教会員は皆、彼らが資料館を訪問してほしいと
心中思っていることを米国人は知っているだろうか。
日本人は、あるいは少なくとも広島市民はヒロシマを
誇りに思っている。(朝日新聞 8 / 6 / 05 天声人語参照)
2 葉佐井博巳広島大学名誉教授 ロスアラモスに滞在中
「ある時、米国の研究者が結局、原爆が多くの日本人
を救ったんだ、と誇らしげに語りかけてきたんです。
とっさに冗談じゃない!私は広島の人間だと叫んで
しまった。」
(今年3月まで広島国際学院大学長。朝日新聞
4 / 13 / 05)
私(投稿者)は、「過ちは繰り返さない」の主語は、
米国も含むものと受け止めている。(主語に対する話
者の意志、約束を表す shall の用法を考えて。)
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久しぶりにお邪魔致します。
アメリカ人には原爆がいかに戦争のルールを無視したものであるものであるかということが理解できない方もいるようで残念に思います。
以前どこかに書きましたが、支部にとてもよい人格のアメリカ人姉妹がいて、広島観光から帰ってきて、聖餐会で話をした時、“原爆資料館に行ってきたが、あれをみて原爆を落としたのは間違いではなかった”と証されました。
わが耳を疑ったのですが、いったい資料館で何を見てきたのかと非常に憤りを感じたのを覚えています。
原爆以降、戦争のスタイルが変わってしまったことを考えると、抑止力のメリットよりも、より多くの恐怖をもたらすものとなったと考えるほうが妥当だと思います。
あの悲惨な結果を知ると、肯定できるはずはないのですが、アメリカ人には先祖の歴史を正しいものとしないといけないという考えがあるのでしょうかね?
先日も学生にアンケートをとって2/3は肯定派でした。
被爆者にはじわじわと苦しんでいく人生がまっており、放射線の影響が明らかにされるにつれて結婚等の拒否があったとも聞きます。
原爆は子孫にも影響をもたらすものであり、一発の焼夷弾とは明らかに影響の差があります。
近代戦争の口火を切ったことでその使用責任をとわれることは必至でしょう。
使うべき兵器ではないと思います。
事実、60年間使用されていないことは、使用に際して、世界的な批判が待っていることや、自国にも破滅をもたらすものであることが分かっているからだと思います。
早期の戦争終結に役に立った・犠牲を少なくできたという意見は結果論としてみると妥当性がないとはいえませんが、まともな心を持った人間ならその論法は控えるだろうと感じます。
戦争というものはひとの気持ちを変えるものなので、通じないと思いますが、クリスチャンであれば、決して肯定してほしくないです。
アメリカにすれば、命を懸けて戦ったので、自ら関わった戦争を否定したくないのでしょう。NJ氏の書き込みをみると、アメリカ人も心のどこかでは引っかかる部分があるのでしょうね。
これも時間が掛かる問題でしょう。
9・11テロ以降、アメリカも本土を爆撃される恐怖と憤怒が忘れえぬものとなったと思います。
その感性で広島を見つめてほしいと思うのです。
あの時代の日本の考えは間違っていると思うし、アメリカが勝って、日本の進むべき道を正したことは評価するが、原爆を使うべきではなかったというのが私の意見です。
人間は案外学ばないものですね。
>必要だった、という説を信じている人が、
>米国にはまだ大勢いる。
黒人に神権を与えなかったのは、そのほうが
黒人が神の祝福を受けやすかったからだという
破廉恥きわまる言い訳をしているモルモン会員
を思い出しました。
>話がヒロシマやナガサキとなると、自分たちが
>非難されると感じるんだ。根底には、罪悪感が
>入り混じった複雑な感情があるように思う。
原爆なんて「なかった」とか、「デッチアゲ」
だとか言わないだけマシかもしれません。
日本では南京事件が「まぼろし」だったとか
言い出す連中もいますからねぇ。
来たとき「日本で一番印象に残ってるのは?」と聞いたら「ヒロシマ」と答えてました。
まさか向こうからその話題を出すとは思わなかったのでびっくりしました。
かなり親日なアメリカ人だったのですが…
英語があまりできないので真意はよく分からないです。でも表情から原爆投下を肯定
してるようには見えませんでした。
この6日(土)広島に来て野外コンサートに出演した
十代のアメリカ人女性は「アメリカ人としてのわたし
と人道主義から感じる思いが交錯している」と涙を見
せながら語っていました。(原爆資料館を訪ねて。)
広島を訪れた多くのアメリカ人が感じる気持ちであろ
うと思います。
(遅くなりましたが)
丁寧なコメントをありがとうございました。全文、一言一句同感です。
特に
>使うべき兵器ではない
>(原爆投下の正当化について)結果論としてみると妥当性がないとはいえませんが、まともな心を持った人間ならその論法は控えるだろうと感じます。
>クリスチャンであれば、決して肯定してほしくない
>人間は案外学ばないものですね
の部分に賛成いたします。
この度、60周年記念ということで例年以上に被爆者の言葉に耳を傾ける機会がありましたが、改めてその悲惨さに心を痛め、非人道的所業に憤りを覚えました。
わたしは小学生のとき、学校で「原爆の子」という映画と「ヒロシマ」という映画を見て、ケロイドのあまりにひどい映像に暫く夜恐かったことを覚えています。さすがに最近では資料館でさえ、そのような写真は控えめにしているようですが。
わたしは今でも原爆ドームのそばを通るとき、何か荘厳な、尊いものを前にしているような気持ちになります。激しい被災と犠牲、復興の象徴であり、平和を目指すよう万民に語りかける象徴でもあって、普遍的な意味を感じ取るからです。
それに対し20件のコメントが載っていました。
初めの記事は、投下に至る経緯や責任の所在などに触れることなく、今は起こった出来事、失われた人命に思いをいたすべきである、とイザヤ書の聖句とヒンクレー大管長の説教を引いたものでした。
そもそも真珠湾に始まるんだ、というような書き込みに対しては、この度はそういった議論に広がらないようにしたい、と釘をさしていました。総体的にこのような角度からの書き込みに賛成の人が意見を述べていました。
21件目のコメントとして、短く、このような扱いがされていることを評価したい、と記入した次第です。
http://www.timesandseasons.org
お返事を頂き、本当にありがとうございます。
広島にお住まいですと原爆の悲惨さを特に強く感じられると思います。
以前、広島でマックスウェル長老をお迎えしての大会があり、20年ぶりに広島を訪れる機会がありました。
非常に深い内容のお話をされたのが印象に残っておりますが、そのお話以上に印象に残ったのが広島という町から
漂う悲しみでした。
マックスウェル長老は軍人で日本に来ていたと記憶していますが、どのような気持ちでこの街に来たのかなと想像
したりしました。彼は日本を愛しているようなので、決して明るい気持ちではなかったでしょう。
基町に高層のビルが出来て、街は非常に近代的になり、“50年間草も生えない”と言われた街とは思えないほど
再生した姿を見せておりましたが、原爆ドームや資料館に行ったせいか、その繁栄の陰にある残酷な過去が思い起こされ、心が重くなったのを覚えています。
公園の川沿いを歩くと、投下直後、水を求めて川に沈んでいった人々の姿を思い浮かべずにはいられませんでした。
長崎もそうですが、美しい町並みを見ても、数10年前ここはどのような状態だったのだろうかと感じさせられま
す。その地に行くだけで、戦争を思い出させる町は貴重です。広島・長崎はやはり、人々の高慢を戒め、過ちを繰り返さないために特別な意味を持つ町として永遠に世界中の人に(日本人にも)記憶して頂きたい町であります。
できれば訪れてほしい。両親は戦後、廿日市に住んでいたので、いろいろと広島のことを聞かされました。
風化させてはいけない歴史ですね。
戦争については、いろいろと考えさせられることがあります。
息子は空手をやっているせいもあって、時々、喧嘩の仲裁に入ります。(学級崩壊しており、毎日喧嘩ばかりです)
結果的に、巻き添えをくらって自分も喧嘩するのですが、大人の場合でも、正義や隣人の自由のために戦う場合というのは本当にあるのでしょうか?
勉強不足で過去の戦争について過程や背景を十分に理解していないのですが、戦わないといけない時もあるので
しょうかね。
教会を非難する気持ちは全くないのですが、モロナイの自由の旗に書かれた内容は、どう捉えればよいのでしょうか?
息子の立場に置き換えれば、間違っているとは思えないのですが…………自分も家族を見殺しにするのは嫌ですし
ね。
アンタイーニーファイリーハイ人(だったと思います)のように戦いを拒んで死ぬのが、一番クリスチャン的かも
しれませんが、これが一番というのは分かりませんね。 皆様の考えも聞いてみたいです。
人の権利を踏みにじるものに対しては、戦う必要があるのかもしれませんが、この問題は難しい……・・
私も45年人間やっていてまだ悟りがひらけません。
教会では、モロナイの考えが支持されているようですが、私にはみこころがわかりません。
みこころも臨機応変なのかもしれませんが、我々人間にとって、一番大事なことは争いを起こさない努力だと思う
のです。
わがままを言う人間がいなければ争いは起こらないでしょうから………・・
結局、愛や赦しが戦争を遠ざけるのでしょうね。
一人一々が排他的、独善的にならないように気をつければよいだけなのですが………………人間には無理かな?
当時のトルーマンは、すでにソ連との間で始まっていた冷戦に機先を制するために広島長崎に原爆を落としたのです。結果は思惑通りでした。それから数年、アメリカは日本を占領し、日本の「戦争犯罪者」を軍事法廷式に裁き、占領憲法を押し付けて国民が拉致されやすい体制にさらしたのです。でも大局的に観ればアメリカのみに占領されたことは日本にとって幸運でした。反対の陣営だったとしたらぞっとします。
また、原爆投下は戦争終結を早めたというのも真っ赤なうそ。あの当時すでに日本は敗戦続きでもはや戦闘継続の力はありませんでした。ですから原爆投下の必要性などなかったのです。
どさくさにまぎれて原爆投下を戦争終結のためだったという米国人がいることと、南京事件が幻だったというひとたちがいることを意図的に混同することのないようにしたいものですね。この両者は全く異質なものです。歴史観を語るときに避けたい態度です。
日本は情報戦(ハルノート)に負けたのです。アメリカは真珠湾を奇襲されることは百も承知でした。真珠湾にあった母艦は米国にとってメインではなかったのです。従ってその後の戦闘は有利に戦えたのです。
つまり、日本が明治、大正、昭和と大陸に押し寄せる欧米列強に備えているに伴い、アメリカも日本という国をたたいてやろうという意図があり、その策略に貶められてしまったというのが真相なのです。
日本がペリー訪浦賀以来、列強の脅威に備えて他国と同様に軍国主義を取らざるをえなかったということは現在の倫理観で裁くことはできません。そうしなければ現在の日本の存在はなかったでしょうから。
南京事件が幻だったという人と議論をしたとき、その人は「アメリカが原爆の非人道性についての非難をかわすために日本の南京虐殺をでっち上げたのだ」と自ら同列に並べて語っておきながら、アメリカの行為を非難しようとするときには「両者は異質な物であって同列に語るべきではない」と言うのでした。
こうした自分本位な話し振りが南京事件まぼろし派の特徴であります。
原爆は日本でも研究開発が試みられていました(理化学研究所)。ドイツでも。日本の技術では完成できずアメリカに先を越されただけのことです。
もし日本が先に完成していたら戦局を挽回する兵器として直ちに使用したでしょう。
そうなったら歴史は変わっていたでしょうが、南京事件と同じように「まぼろし派」が現れて日本は原爆など使用していないと言うでしょうね。
彼らは、子孫には栄光ある歴史を残すためならばウソをつくことも正しいと思っているようですから。(いや彼らの理屈ではそれはウソでないということか・・・)そんな恐ろしい世の中は勘弁してもらいたいです。
日本が行った戦争の本当の理由は何でしょうか?
アジアの同胞を欧米の支配から開放してあげることでしょうか?
日本の行ったことを世界の標準で考えると戦争の正当性は皆無と思われます。
八紘一宇のスローガンがあったということは、神国日本が世界を支配するという宗教的なもくろみもあったと思います。
だいたい一ヶ月くらいで30~40万人もどうやって殺せますか?均せば一日1万人です。でも少ない日も多い日もあるでしょう。すると1日数万人の日もあるということ。数万人を一日でどうやって殺せるかという現実性を考えればいかに虚構であるか、まともま精神構造の人間ならばわかるはず。
どうしてそんなにいこじになって「あった」といわなければいけないのか?理解に苦しむ。
そして原爆投下の正当性を主張する米国人と南京事件幻派を意図的に何の脈絡もなく混同するあたり、アカデミックに議論する態度とは言えませんね。そりゃね、市街戦があったわけですから、多少の市民のまきぞえや捕虜の処刑はあったと認めざるを得ませんが、30~40万人は大げさすぎる。アイリスチャンなどは最後に精神疾患で自殺してしまった。そんな精神疾患者の書いた著書など信頼に足るものではなく、実際に内容が噴飯ものでしたね。
ま、戦争を起こしたわけですから、戦闘には悲劇が伴います。どこの国にも大義はないのです。現在の倫理観、価値観で裁くと国家観を見誤ります。歴史の流れというものはそういうものです。アメリカだって大罪を犯しています。ソ連もそう。中国も同罪。北朝鮮などは現在進行中です。アメリカは黒人奴隷という大罪を犯したけれど反省したことはありません。イギリスもインド殖民の反省もありません。それが人間の支配、被支配の歴史なんです。ことさら日本がどうこうというのはバランスを欠いています。もちろん、我々日本はここの罪に対しては反省と賠償をすることは当然。でもそれは既にやっているし、進行中です。いまさら、自虐的になることはないんです。
南京事件がなかった、と言うのは受け入れられません。
日本軍、中国人以外の第三者が現場に居て、写真や証言があるわけですから。残虐行為が一都市に限られないこと(行軍の途中も含まれること)、時期も狭い限られたものではないこと、数字を大きく拡大されたものを使って、反論の材料にするのは当たらない、と申し上げます。
私は「自虐」という言葉自体好みません。局長さんは一部特殊な思想グループとその書籍、主張に偏向しているように思われます。証拠は一つもなかった、とは。まだ、そんなに大昔のことではないわけですから、広島の被爆者同様事件の当事者は、双方にまた第三者の立場の人がいるのです。
わたしはこの分野に十分精通しているわけではありません。しかし、この件について歴史観がそれぞれであれば局長さん、これ以上のコメントはお差し控えくださいませんか。
30~40万人の市民の虐殺だと定義するなら、いくらなんでもそれはありえないという意味で幻です。
市街戦で多少の市民の巻き添えや捕虜の処刑や行軍中の戦闘での中国兵士の死を南京事件というなら、あったと認めざるを得ません。
写真と言われますが、中国のプロパガンダから出されたものは専門家によってすべて喝破されています。
証言と言われますが、どうもあやふやなものが多いです。でもこれも現在論争中ですので私には断定できません。
特殊グループと言われますが、お互い様でしょう。私からしてみれば、既に小泉訪朝によって瓦解した戦後民主主義イデオロギーのグループのほうが特殊です。従って、いかにも私の傾倒している思想が特殊だというのはおやめ下さい。戦後民主主義のこれまでの論調が、ことごとく崩れ去っている現状をみれば、どちらに軍配があがりつつあるか一目両全ですよね。
南京事件がなかったとは言いません。「あった」派のいうような30~40万人の市民の虐殺はなかったと主張しているだけです。20万人の人口を30~40万人も殺せるわけもないことはアカデミックを本領としているかたがたにはお分かりになるはずです。
「自虐」という言葉がお好きでないならば、塾長さんの前で乱用するのは控えますが、逆に「右傾化」とか「軍国主義」とか「好戦的」とか「戦前に回帰する」とかいう短絡的な言葉も控えるべきだと思います。塾長さんが、これらの言葉を使っているというわけではありませんが、一方の陣営のかたたちは、あつものこりてなますをふく、というような論調が目に付くものですから。
いずれにしてもご不快といわれるなら南京事件はここではこれ以上、議論しません。平行線になるだけですから。
犠牲者数ひとつをとっても研究者が何を資料にしているか、どのような数え方を採用しているかで大きく異なります。
たとえば秦郁彦氏は中国側の主張に頼らず日本側の資料(軍の記録、戦闘詳報など)だけをもとに約4万人が不当に殺害されたとしています。非常に説得力のある数字で私もこれを支持します。
ところがこうしたまともな数字にはとうてい太刀打ちできないことを「まぼろし派」はわかっているようで(笑)、彼らは決して取り上げません。
全ての「あった派」研究者が30万~40万だと主張しているかのように見せかけ、彼らの主張はおかしいぞと我田引水するのが「まぼろし派」の常套手段です。これは過去にLDS-Jでも話したはずです。あなたはいったい何時になったら人の話を聞くのですかね?
アイリス・チャンにしても、その著書の不明確、不正確な点はまっさきに秦氏が指摘していました。
しかしその指摘を横取りして、そら見ろ、あった派の主張はこんなに間違っているぞと得意げになっているのが「まぼろし派」なのです。卑怯ですね。
戦争と言う極限状態の中では何が起こるのか、それは何故起こるのか、繰り返さないためにはどうすれば良いのか、そうした点を研究する上で南京事件は重要な題材です。
もっとも「まぼろし派」のように事実に対峙しようとしない人たちが出現してくる点まで含めてみるのも非常に興味深いと思います。
前にも申し上げたように拙サイトの掲示板へどうぞ。一度来られましたよね。
そこで、あなたのご意見をお受けしましょう。私のサイトと言っても、私の聖域とは考えていません。どんな意見も公序良俗に反しない限り受け付けますよ。