[Zondervan, 1980. 沼野所有]
イエス時代のキリスト教徒にとって七十人訳は、
末日聖徒に対する欽定訳聖書の関係に相当する。
その心はいずれもその翻訳から多大の影響を受けている。
以前、七十人訳は単に紀元前にヘブライ語からギリシャ語に翻訳された旧約聖書くらいに見ていた。暫くして、初期のキリスト教徒はこの七十人訳を読んでいたことを知った。そして最近、この七十人訳が英語圏のLDSが欽定訳聖書(略してKJV)に依存している関係にそっくりであることに気づいた。
注意しなければならないのは、いずれの翻訳もオリジナルの聖書本文を正確に反映しているとは言えず、それが原始キリスト教に、またモルモニズムに受け継がれている点で共通していて興味深い。ここでは七十人訳の翻訳(の特徴)がキリスト教に引き継がれている例を少しあげてみたい。
よく指摘されるのは、イザヤ7:14の「若い女性」を意味するヘブライ語が、LXXでは virgin 「処女」と訳されているケースである
語義の微妙な変化では、1) ギリシャ語で「人の側から神をなだめる、赦しを求める」を意味したのが、「神の側から罪をあがなう、赦す」という語義で用いられるようになっている。(口語訳申命21:8, 詩篇65:3和訳「ゆるす」)。 2) 「法」という硬い意味になっていた nomos がトーラーの訳として「教え、原則」という広い語義で訳されている。3) 出エジプト3:14の「わたしは有って有る者」(I am that I am)は「私は自ら存在する者」(I am the Self-Existent) となって、神人同性論を排除する方向に向かっている。
そのほか、語句が異なったり追加されたりする事が生じている。例、アモス9:12 「わが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである」→「わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである」(LXXに基づく使徒15:17)。ほかにもLXXイザヤ40:3がルカ3:4に引用され、ヘブライ語聖書と異なり、LXXイザヤ29:14 がIコリント1:19に引用され、ヘブライ語聖書(KJV)と異なるといった具合である。
七十人訳は聖典の翻訳としては、柔軟・融通性があり、翻訳の過程でギリシャ語にヘブライ語的な語義がかぶり、逆にヘブライ語聖書にヘレニズム的なニュアンスが加わっている。そしてこのLXXに依存した新約の信徒や記者はその強い影響を受けた。ちょうどLDS教会がKJVの強い影響下にあるのとよく似ている。
[七十人訳(Septuagint, LXX)と現代語訳の関係] [ヘブライ語聖書本文の流れ。no change に注目]
参考
C.K.Barrett, “The New Testament Background,” 1956, 1961, pp. 208 –
S.Kent Brown & Richard Neitzel Holzapfel, “Between Testaments from Malachi to Matthew,” Deseret Book, 2002, pp. 110-
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となるとクリスチャンとしては、イエス時代のヘブル語のオリジナル聖書の理解が重要になってくるわけで、残念ながら現存しないのなら、啓示に頼る以外方法がないわけで、
出来の良し悪しは別として、JSが手元にあったKJVを基本にして霊感聖書を作ろうとした原動力もそこにあったのかも知れません。
http://considerthegospel.org/wp-content/uploads/2012/03/OT-MSS-timeline-to-today2.jpg
記事本文にも加えます。
つまり・・・
●翻訳や編集の過程で真理が伝わらなかったのではなく、意図的な悪意で抜き取られた
●ユダヤ人の側にある聖書は完全な状態で、異邦人側にあるのは不完全である
しかし残念ながらモルモン書のこの主張を支持する証拠は学術的にも歴史的にもありません。
またモルモン書では聖書を『一冊の書物』『ユダヤ人の記録』と表現されています。ところが歴史的には聖書(特に新約聖書)は、異邦人に広まってから現代の形式にまとめられ一冊の書物という体裁になりました。
旧約聖書が現在知られている形に構成されるのはさらに後年になってからです。
死海写本は既に削られていたものだったということになるのでしょうか??
ユダヤ人の聖書は、バビロンに連れていかれて、ユダヤ民族が崩壊の危機に瀕した時に、当時国土を持てなかったユダヤ人が、民族の宗教的一致を目指して、その基礎となる教本を作ったものです。
新約聖書も、数あるキリストの教えや足跡、キリスト教初期の指導者の言葉等を集めて編纂したものです。
つまり、人間が自分たちの都合で作ったものです。
ですから、聖書に「完全な聖書」等と呼べるものは何処にも存在しない。
聖書の文言をいくら正確に翻訳しても、それは、真理を示すのもではない。
しかし、長い歴史の中で、生き残ってきた聖書の文脈の中には人間の生きるべき道が示されている。
それを見つけるのは、ただ読者の努力による。
いくら沢山のダイエット本を読んでも、痩せるわけではない。だが、痩せるためのヒントには成る。
「2015年3月26日木曜日 - - - シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」
ローレンス・H・シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、79-98頁(Law」
http://virtrilinguis.blogspot.jp/2015/03/3.html
炭素年代測定では、古いので紀元前250年という話だな。
「あなたはその書物がユダヤ人の口から出て来たのを見たが、それがユダヤ人の口から出て来たときには、主の完全な福音が載っていた。この主については、十二使徒が証をしており・・・」
この図解分かりやすいですね。
ただ実はそうでもないのに、正統派の神学者たちの太鼓判でいかにも聖書不変の証明がされてしまったと一般論になって蔓延しているのが、私からしたらいささか強引さを感じてしまいます。
(疑い始めるとキリがないのですが、権威筋によっていつの間にか洗脳されてないかは用心するポイントだと思います。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7%E6%96%87%E6%9B%B8#.E6.B4.9E.E7.AA.9F.E3.81.A8.E7.99.BA.E8.A6.8B.E3.81.95.E3.82.8C.E3.81.9F.E5.86.99.E6.9C.AC.E3.81.AE.E4.B8.80.E8.A6.A7
私から見れば、ソマラ本文から聖文が結構抜かれてるように見えるんですよ。
過去に抜かれた未知のテキスト(例えば「神殿の書」とかです。)は「教団文書に分類されることで」批判を免れてるみたいに印象操作されてないかですね。
(だからと言って物的証拠もなくJSが正しいと持ち上げているわけではないですよ。)
ところが実は、歴史的に有名な聖書から抜き取られた書物がある!のです。これもほとんどのLDS会員は知りませんが、それは以下のとおり。
●トビト記
●ユディト記
●マカバイ記1,2
●知恵の書
●シラ書
●バルク書
抜き取った人物は宗教改革で有名なマルチン・ルターです。だからプロテスタントの聖書には上記が含まれません。外典扱いです(カトリックでは聖書に含まれます)。これって悪魔の大教会の仕業じゃないの?重大な背教行為じゃないの?・・・かと思いきや教義と聖約でジョセフが受けた啓示では、外典は不正確なので必要ないという事に。
何だかなぁって感じです。