同志社大学神学部教授のサイトに非常に明快な記事が掲載されているので、要約して紹介させていただくと次のようである。
教会は置かれている社会的・文化的コンテキストから常にいろいろな問題に直面し、その都度聖典や教会の伝統と照らし合わせて(対話して)倫理的判断を下してきた。そして従来強力な規範となってきた考え方も根本的に問い直されることが生じ得る。
今日における典型的な例は性に関する倫理である。ここでは特に性の多様性について取り上げる。小原教授は次のように警鐘を鳴らしている。「キリスト教はただ(社会で戦わされている)その議論に追随するだけでなく、自らの聖書的・教会的伝統に照らし出した上で、社会的に価値のある問題提起や解決を示していくべきであろう。社会的な価値や有効性を考えなければならないのは、この種の問題が教会というサークルの中で完結しないからである。教会の内側でのみ適用可能な倫理を構築することは、問題の本質を見誤ることになりかねない。」
性に関する規定は旧約にも見られるが(同性愛 創世19:1-29,レビ18:22, 20:13)、新約を中心に取り上げている。
同性愛を批判・非難する根拠として聖書が引用される場合、関連する表現を1)本文の文脈から、2)社会的・文化的コンテキストから切り離して使われるが、それでは事柄の本質に立ち入って論じることができない。
新約聖書に記載されている箇所(Iコリ6:9-10, Iテモ1:9-10, ロマ1:26-27)は、結論を言えば「性的欲望を満たすために少年を金銭や権威によって手に入れる」男色を非難しているのであって、「性的指向(sexual orientation)に対応するような同性愛の概念は(NTに)存在しない」。従って、「新約聖書が問題としている同性愛と、今日のわれわれが考える同性愛とはまったく異なる。すなわち、新約聖書の特定箇所から、今日の同性愛問題全般に対し有効な指示を引き出すことは不可能」である。
更に著者は「伝統からの拘束にとらわれず、経験に即して理解が変わっていく例は新約聖書自体の中にもある。割礼や食事規定をめぐる初代教会内での理解の変遷はその一例である。われわれが十分に聞いてこなかった「声なき声」が、むしろ逆説的に、新たな倫理的規範性を生み出す内的な力となり得ることを聖書は語っているのではなかろうか」と言う。
著者は課題と展望のひとつに生物学との対話の必要性を説く。「性についての生物学的な研究成果には目を見張るものがある。精子と卵子が受精し、一個の個体が誕生するまでの間には、多様な性分化のプロセスがある。従来考えられてきたように、性染色体にのみ注目して、女性はXX染色体、男性はXY染色体を持つという区分をするだけでは、人間の性を表現するのにあまりにも不十分である。性染色体によって決定される遺伝的性だけでなく、内性器・外性器の性分化、ホルモンの働きによる脳の性分化など様々なプロセスの複合として人間の性は決定されていくのである。」そして、「それらの研究によれば、男のあばら骨から女が作られたという創世記2:22の表現より、男が女から作られたという説明の方がはるかに現実に合致している」のである。
この部分はおそらく元BYU教授のブラッドショーの主張と重なってくるものと思われる。
小原教授の記事はここにあげなかった説明を含み大変読み応えがある。この要約を含め、私の記事は時に必要な説明を欠き、分かりにくいことがあると懸念しているので、この要約にもそう感じるひとは是非元記事を参照していただきたいと思う。
元記事:小原克博OnLine
ブラッドショー関連:
2010/06/09 元BYU教授「生物進化論 --科学と信仰間の調和 --」について語る
2011/03/19 同性愛に関するパッカー長老の説教、論争を引き起こす
参考:
2006/01/31 モルモン教徒と進化論
教会は置かれている社会的・文化的コンテキストから常にいろいろな問題に直面し、その都度聖典や教会の伝統と照らし合わせて(対話して)倫理的判断を下してきた。そして従来強力な規範となってきた考え方も根本的に問い直されることが生じ得る。
今日における典型的な例は性に関する倫理である。ここでは特に性の多様性について取り上げる。小原教授は次のように警鐘を鳴らしている。「キリスト教はただ(社会で戦わされている)その議論に追随するだけでなく、自らの聖書的・教会的伝統に照らし出した上で、社会的に価値のある問題提起や解決を示していくべきであろう。社会的な価値や有効性を考えなければならないのは、この種の問題が教会というサークルの中で完結しないからである。教会の内側でのみ適用可能な倫理を構築することは、問題の本質を見誤ることになりかねない。」
性に関する規定は旧約にも見られるが(同性愛 創世19:1-29,レビ18:22, 20:13)、新約を中心に取り上げている。
同性愛を批判・非難する根拠として聖書が引用される場合、関連する表現を1)本文の文脈から、2)社会的・文化的コンテキストから切り離して使われるが、それでは事柄の本質に立ち入って論じることができない。
新約聖書に記載されている箇所(Iコリ6:9-10, Iテモ1:9-10, ロマ1:26-27)は、結論を言えば「性的欲望を満たすために少年を金銭や権威によって手に入れる」男色を非難しているのであって、「性的指向(sexual orientation)に対応するような同性愛の概念は(NTに)存在しない」。従って、「新約聖書が問題としている同性愛と、今日のわれわれが考える同性愛とはまったく異なる。すなわち、新約聖書の特定箇所から、今日の同性愛問題全般に対し有効な指示を引き出すことは不可能」である。
更に著者は「伝統からの拘束にとらわれず、経験に即して理解が変わっていく例は新約聖書自体の中にもある。割礼や食事規定をめぐる初代教会内での理解の変遷はその一例である。われわれが十分に聞いてこなかった「声なき声」が、むしろ逆説的に、新たな倫理的規範性を生み出す内的な力となり得ることを聖書は語っているのではなかろうか」と言う。
著者は課題と展望のひとつに生物学との対話の必要性を説く。「性についての生物学的な研究成果には目を見張るものがある。精子と卵子が受精し、一個の個体が誕生するまでの間には、多様な性分化のプロセスがある。従来考えられてきたように、性染色体にのみ注目して、女性はXX染色体、男性はXY染色体を持つという区分をするだけでは、人間の性を表現するのにあまりにも不十分である。性染色体によって決定される遺伝的性だけでなく、内性器・外性器の性分化、ホルモンの働きによる脳の性分化など様々なプロセスの複合として人間の性は決定されていくのである。」そして、「それらの研究によれば、男のあばら骨から女が作られたという創世記2:22の表現より、男が女から作られたという説明の方がはるかに現実に合致している」のである。
この部分はおそらく元BYU教授のブラッドショーの主張と重なってくるものと思われる。
小原教授の記事はここにあげなかった説明を含み大変読み応えがある。この要約を含め、私の記事は時に必要な説明を欠き、分かりにくいことがあると懸念しているので、この要約にもそう感じるひとは是非元記事を参照していただきたいと思う。
元記事:小原克博OnLine
ブラッドショー関連:
2010/06/09 元BYU教授「生物進化論 --科学と信仰間の調和 --」について語る
2011/03/19 同性愛に関するパッカー長老の説教、論争を引き起こす
参考:
2006/01/31 モルモン教徒と進化論
このブログのスタンスが不明であるとの指摘があることは先刻承知です。
「見てきたような・・」は、英語の検索で見出しを見ているだけでもすぐわかるほどのことです。日本ではまだ顕在化していなくても同様と推測できます。
>問題に気がついてるような人が、同性愛者を苦しめるような活動に、資金を提供して応援するはずがないでしょ!
それはもちろんないでしょう。(私が1/10を納めていること?!)
>「文句を言わずに従いなさい」って言うのなら、・・
誰が誰にでしょうか。
相互に文脈を予測しにくいため、話がかみ合わない恐れがあります。このブログが理解できない、あるいは物足りないと言われれば、それは仕方のないことです。それぞれ皆が理解とスタンスが違うのですから。
>(歳をとってくると指導者に友達がいる。)
残念ながら、尊敬できる指導者に出会わなかったもので・・。
最初に出会った指導者も、今では、批判とも擁護ともわからないようなブログを作って、すだのこんにゃくだのと、言ってるだけで・・・。
>自分が所属している教会だから「愛する」と言っても何らおかしくないし、今の社会にあってこの問題に気付いている上層の指導者もいるわけだから、教会という組織が当惑し苦慮していることも本当でしょう。(他のキリスト教会も同様。)
と言うような、見てきたような、「げなげな」話を書いてる。
問題に気がついてるような人が、同性愛者を苦しめるような活動に、資金を提供して応援するはずがないでしょ!
そんなのは、単なる言い訳であり責任逃れに過ぎません。
「文句を言わずに従いなさい」って言うのなら、それに見合うだけの事を言え、ちゅーーの!
自分が所属している教会だから「愛する」と言っても何らおかしくないし、今の社会にあってこの問題に気付いている上層の指導者もいるわけだから、教会という組織が当惑し苦慮していることも本当でしょう。(他のキリスト教会も同様。)
指導者も初めは一会員だったわけで、モルモン教会では特に両者は連続している面があります。私は二つに一つと分離する見方を必ずしもしなくてよいとみています。(歳をとってくると指導者に友達がいる。)
ただ、
> 教会はその会員が準備できて いないことはなかなかできない
その通りですが、幹部には高齢の人が多く考え方が保守的で、準備ができていないのは指導層の方であることが多いと考えられます。黒人に神権の場合も同性愛(婚)の場合も、(また将来予想される女性のより広範な教会運営参加についても)。
豚(本物)が吼えると怪獣のように大きな声でびっくりしたことがあります。豚さんの声も大きい!;-)
苦しんでるのは、同性愛者であって、モルモン教会ではない!
モルモン教会は苦しんでるのじゃなくて、苦しめているんです!
指導部の問題を、会員の認識にすり替えるのはやめて欲しい!!
いつも会員の意見なんて聞かないのに、都合のいい時だけ利用しないで下さい!!
おおきなカテゴリーでみると同性愛者差別と女性差別は同じになると思っています。
原始キリスト教において女性は十二弟子に劣らない指導的な活躍をしていたことが新約聖書の記述から指摘されています。
カ ルフォルニア州では一度は成立したけど、教会が同性婚禁止の提案を支持し、会員にそれを斡旋させて、ひっくり返えった。最高裁で、同性婚禁止は違法と判断 されたのに、法律を守ると宣言している教会の立場はどうなるのだろうか。法律化されるというのは、教義的にも絶対的な意味を成す。性的関係は罪だが、法律 で認められた結婚の下では罪ではなくむしろ奨励されているくらいだ。
教 義的には一夫多妻は今でも有効ということだけど、法律で禁止されているから教会内でも禁止してる。今、一夫多妻をすれば、破門だ。黒人に神権が与えられて いなかったことも、法的に市民権が認められ、差別の悪が社会で認められ、蔑まれてしばらくたって、やっと認められた。啓示によって、変わったというけど、 そもそもそれが教義ではなかったと、大管長だったデビッドO.マッケイもはっきりと言っていた。ジョセフ・スミスの時代ではそのような差別はなかったそう だし、正式な啓示もないまま、それが慣習になって、1978年までに至った。同性婚が認められるのも時間の問題と僕は見る。まだ何年もかかるだろうけど。
家族ー世界の宣言は同性婚反対への絶対的証拠であり、同性婚の入り込む余地はないと主張する人も多い。その観点から見てみよう。
男女の間の結婚は神によって
定められたものであり,家族は神の子供たちの永遠の行
く末に対する創造主の計画の中心を成すものであること
を,厳粛に宣言します。
な るほど、この点を言ってるのですね。でも別に一生結婚できない人は創造主の計画の中心でないにしても、(中心があるということは、中心じゃない部分は必ず 出てくる)別に破門されるとかないですよね。知的障害者、重度の身体的障害者、どうしても、相応の人に会えない人、などなど、この理想に沿えない人は少な くない。だけど、みんな自分たちのできる範囲で頑張っていて、みんな認められている。なぜ同性愛者だけが、自己のベストを尽し、幸福を探求することが許さ れないのか。少なくともこの文章から、同性婚の禁止は見出せない。
すべての人は,男性も女性も,神の形に創造されてい
ます。人は皆,天の両親から愛されている霊の息子,娘
です。したがって,人は皆,神の属性と神聖な行く末と
を受け継いでいます。そして性別は,人の前世,現世お
よび永遠の状態と目的にとって必須の特性なのです。
まったく問題ないですね。男性も女性も、ですね。人は皆、神の属性を受け継いでいる。同性愛者も含めて、皆、だと思います。
生殖の神聖な力は,法律に基づいて結婚した夫婦である男女の間にお
いてのみ用いるべきです。
そもそも生殖の力なしですね。(これは、ちょっと揚げ足取ったような感じかな、すみません)
その他ほぼすべての原則は同性婚でも適用できると思う。特に以下を当てはめるとそう感じないではいられない。(これは家庭内の役割分担に関するものであることは承知していますが)
心身の障害や死別,そのほか様々な状況で,個々に修正を加えなけれ
ばならないことがあるかもしれません。
指 導者は同性愛者の方々に「神様は、同じ性の人と一緒になって欲しいと思いますか」と聞くそうです。たいての人はNOと答えるそうです。だけど、これは非常 に不平等は質問です。これに答えなければいけないなら、教会は次の質問に答えられるでしょうか。「同性愛者を追い詰めて、その結果自殺に至ることは神の御 心と思いますか。」実際何十人もの同性愛者が教会の教義や、会員たちの偏見などによって自殺している。
私 たちは教会員として、あるいは純粋に一人のクリスチャンとして、あるいは単に人として、この問題にどう向き合っていけばいいでしょうか。会員として、教会 の指導者を支持しているので、この慣習(教義ではないと思う)に一定の理解を示すべきでしょう。指導者たちの言葉をよく聞き、聖典にヒントを求め、一人一 人が祈って、御霊に促されるままに行動すべきでしょう。預言者が一つのことを言って、御霊が別のことを言うことはありえると思いますか? 直感的にはない と感じるかもしれません。でも考えても見てください。そのような実例は聖典の中や日常生活であると思いませんか。ニーファイがレーバンを殺したシーンは、 クラシカルな実例ですが、日常にもいくらでもあると思います。安息日を清く保つことはほぼすべての預言者が言うことですが、例えば、ティーンネージャー が、安息日にどうしても遊びに行きたいと相談され、御霊の促しによって、それを許して、結果、本人が安息日の大切さを学び、二度とそのようなことをしなく なるということもありますよね。水泳を禁止されている宣教師が、御霊に促され、水に飛び込み、溺れそうになっている子供を助けるとか、いくらでもあり得る と思います。
神 に愛されているわたしたちの兄弟姉妹が苦しんでいる。我々の愛する教会がこの問題について苦しみながら、進もうとしています。教会はその会員が準備できて いないことはなかなかできない。黒人問題も、共同制度もその観点が大きかった。まずは問題について良く知ることです。学び、調べ、祈り、行動しましょう。 行動の場を見つけられないかもしれません。でも自分のスタンスをよく決めておきましょう。自分の信条を表明しなければならないときが来るかもしれません。 カルフォルニアではそれが起こりました。実は、同性婚禁止提議に反対した会員も少なくなかったのです。勿論、その結果(研究、祈りの末)、保守し、断固同 性婚に反対していく、と促された人はそうするべきと思う。でもその反対に促された人は、その反対をすべきです。御霊の促しを得られない人は、調べた結果、 思考を最大限に使って、自分なりの判断を下しましょう。どちらか分からない人は、祈り続けましょう。
.
同性愛に対する社会的な理解が進むと同時に、幹部内でも意見が分かれて行くのではないでしょうか。
すでに多くの忠実な末日聖徒が同性結婚に賛成しています。共和党の大統領候補ハンツマンもリベラルなモルモン教徒として同性結婚に賛成しています。
パッカー長老の仮借ない断罪があるにもかかわらず同性結婚賛同者が懲戒処分を受けた話を聞きません。