
末日聖徒はエゼキエル37:16に書かれた、ユダの木とエフライムの木が一つとされる、という預言は、モルモン書(エフライムの木)がもたらされ末日聖徒の手で聖書(ユダの木)と一つとなり、正に成就したとみる。それはモルモン書の記述に現れ(IIN2:12)、教義と聖約27:5に言及されている。そしてジョセフ・スミス以降、末日聖徒の預言者が明言してきたところである。

それはよく承知しているが、今年旧約聖書を読んできて、エゼキエル書37章の本文は、22節以降を読むとイスラエルがパレスチナにおける元北王国と元南王国のように二度と二つの国となることなく一つの国となることを指していることが分かった。エゼキエル書がイスラエルの帰還・回復をテーマとして、目の前にいる捕囚の民を導き励ますために書いていることを考えると、この解釈が文脈から見て妥当である。昔、インスティチユートの部長を務め、ユタ州立大学で聖書を長年講じたヒーバー・C・スネルも同趣旨で論陣を張っていた。(ダイアログ誌 2巻1号、[1967年春季])。
なお、鍵となる言葉「木」の原語を巡っても異論が戦わされた。元BYUヘブライ語教授キース・メサービーは「木」(英語で stick, ヘブライ語でעֵ֣ץエッツ)が書き板writing board,すなわちタブレットを意味すると発表し、ニブレーは「本」であるとした。原語のエッツは一般に「木 wood」とか「棒 stick・杖 rod」を意味する。
さて、聖書の解釈において第一義は、やはり語り手である預言者が意図した目の前にいる対象、すなわち同時代の聞き手イスラエルの民が理解するところである。エゼキエル37章の場合、捕囚の地にあったイスラエルの民が、帰還後は一つの民となる、という預言であった。ただ、最近のコミュニケーション理論によれば、テキストの持つ「意味」は読み手の背景(社会的、経済的、文化的、宗教的背景)に応じて「生産」されるものであるから、末日聖徒のくみ取る意味も受け入れられるものであり、一般に理解されている解釈も当然受け入れられるものである。ただ一つの意味だけが正しいというわけではない。
他の例をあげれば、イザヤ書に描かれた僕(52, 53章)がメシアを指すとしても、ユダヤ人にはまだ成就していない預言であるのに対し、新約時代のキリスト教徒にとっても末日聖徒を含めて今日のキリスト教徒にとっても、救い主イエスの降臨によってすでに成就した預言となっている。聞き手によって異なる意味を持つのは自然なことであり、それぞれ尊重されるべきである。個人においても読むたびに違う意味が浮かび上がり、新しい発見があるというのも上のコミュニケーション理論によればうなづけるところである。
参考
当ブログ 2008/05/06 聖書のテキストの意味とは?
辻学、水野隆一、,嶺重淑、樋口進『聖書の解釈と正典 開かれた「読み」を目指して』キリスト新聞社 2007
キース・H・メサービー「エゼキエルの木」聖徒の道 1983年12月号 22-28頁
Heber C. Snell, Sidney B. Sperry, Kent Robson, "The Bible in the Church," Dialogue Vol. 2, No. 1 (1967 Spring)
>原語のエッツは一般に「木 wood」とか「棒 stick・杖 rod」を意味する。
確かヘブライ語の「エッツ」は棒状の木の意味より木版に相当するからニブレーさんは本と解釈できるとのことだったように思います。
それはよかったですね。確かにインステチュートの生徒用資料「旧約聖書」(コース302, 1988, 1990年)に両義性を認めた書き方が見えます。索引にも両義的預言の項があって8行にわたる箇所があがっています。
ただ、37:16に関して引用されているスペリーもメサービーも従来のlds解釈が正しいと強調しています。(当然予想されることですが。)
ほとんどの資料がみれますねー。
http://ldschurch.jp/gospel-library/manuals/seminary
>スペリーもメサービーも従来のlds解釈が正しいと強調しています。
そうなんでしょうが、改めて読み直すと釈然としません。
ヘブライ語の「エッツ」は木というより材木だそうで、キリストが磔にされた十字架も「エッツ」だそうで、「棒 stick・杖 rod」とかもほうがしっくりきます。
そう言えば、「木」とは巻物の心棒からユダの木は聖書ととれるといってたっけなぁ。
一般のキリスト教ではユダの木=ユダヤ教 エフライムの木(エフライムがベツレヘムの別名ということらしい)=キリスト教で終末に一つになる予言に両義性を見出しているらしいです。
個人的にはこちらのほうがぴったりきます。
まぁ多義性ですかね。
蛇足ですが以前紹介した翻訳がかなり進んでます。
リンクの
=engを=jpnに入れ替えると読めます。
あるいはどこかにリストがあるかも。
http://www.mormonnews.jp/記事/教会,福音のテーマに関する最近のメディア報道用資料を提供
私的にはですが、どちらの木がどちらかはともかく、ユダの木とエフライムの木は、末日のキリスト教会(モルモン教会を含むキリスト教会)とユダヤ教会のことを指し、これらふたつの教会が、復活の日にイエスの承認で合流するという予言だと解釈したほうがより福音に調和しているような気がします。
そのような解釈に近い指導者・学者はいないのでしょうか。
南北王国の統一の話も良く理解できるし、モルモン書と聖書の話も間違いというわけではなくて、これらのものは、このできごとの予徴なのではないかと思うのです。
この観点ですと、時系列的には、37:26には、聖所・神殿が示されてますし、続く38章は、ゴグ、マゴクが出てきますので、末日の終わりのほうの予言となりますかぁ、としますと、木の話は、それら以前のことになりますかぁ。37章の初めの骨の予言は、両義性で見ますと、文字通りの復活の他に、離散したイスラエルの集合をも示し、36章もそういった集合の話で御座いますと・・・・ということで、木の話が、聖典のこととすれば、既に起こっており、かつ継続、現在進行形と理解できるわけです。(モルモン書が受け入れられ、改宗者が生まれるといった意味合い)
それに何といっても、ジョセフから聞いたという、失われた十支族は、地球から切り離された別の星・天体におり、その星が、将来、地球に向かってやって来て合体するといった話があるわけで・・・・あまりの桁外れの話なもんで・・・・
(黙示録20章7-8節)
ゴグ・マゴクについては、末日聖徒のテキストではハルマゲドンの時の敵であることは良く承知していますが、コーランではイエスの1000年統治の後、サタンが解かれた時の最終戦争の時にやってくるようですよ。
http://www.islamreligion.com/jp/articles/620/
エホバの証人さんでも、これは1000年統治の後の話になっているようです。
もしかしてエノクの街のことではないですよね?
ここ:
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/3869a5367b1bf1e2f2fe4ab5633375bf
十支族
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%BD%BD%BB%D9%C2%B2
北朝イスラエル王国に独立以降の十支族の記述は聖書や他文献も含めてほとんど無い事から俗に「失われた十支族」と言われていますが、その十支族の一つであるマナセ族の子孫について記された書物がモルモン書ということですよね。
確かに教会ではエフライムの木=モルモン書、ユダの木=聖書と習うのですが、書物をイスラエルの末裔の歴史(書)と捉えるなら、先祖から子孫に至るまでの部族そのものを表しているとも言えそうです。
そうすると↓二つの解釈について、両者はほぼ同義と言っても差支えないのかなと思いました。
・南北朝にわかれた二つの国(十二の支族)が、将来一つとなる。
・聖書とモルモン書が一つとなる事で完全となる。
建国 :B.C.925(イスラエル王国より独立)
首都 :サマリア
初代王:ヤラベアム(エフライム族)
支族 :ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族
滅亡 :B.C.721 アッシリア帝国により
子孫 :方々へ散らされた。別の星へ?、日本人?
象徴 :エフライムの木、又はヨセフの木
歴史書:なし(失われた十支族)・・・からの、モルモン書(イエス・キリストについてのもう一つの証)
建国 :B.C.925(イスラエル王国より独立)
首都 :エルサレム
初代王:レハベアム(ユダ族ソロモンの息子)
支族 :ユダ族、ベニヤミン族
滅亡 :B.C.586 新バビロニア王国により
子孫 :ユダヤ人
象徴 :ユダの木
歴史書:旧約聖書/新約聖書
創世記のヤコブ(イスラエル)の子供たちの中で、主役は間違いなく「ヨセフ」でしたが、いつしかその主役の座は「ユダ」に変わり、後の「ヨセフ」の末裔の情報はほぼ無くなってしまいます。
その失われたとされた情報が、後に「ヨセフ」の木として「ヨセフ」(Joseph Smith)によってこの世に明らかにされたと考えるとモルモン書に対する見方が多少変わってくる