1 イザヤ書が重要な預言者の書であると知っていても、読むとどうしても難解であるという印象を拭えない。最近読んだ山形孝夫の「聖書を読み解く」(2007年)の中に、53章などに出てくる「苦難の僕」(あるいは「悲しみのメシア」)を理解するヒントを得た。
イスラエルの「亡国そして捕囚という苦難の時を、神の試練として受けとめることによって絶望を押し返す勇気を人びとに与えた。」「預言者イザヤは希望を失いかけたイスラエルの民に向かって語ったのだ」という。→ それであのような表現・言葉遣いとなった。
そして預言者(ここではローエー、先見者、透視する人)は、世の終わりに到来する神の国を幻に視る人でもあり、古代オリエント世界に流布していた世の終末に関する幻想的・絵画的黙示文学の手法を預言の「語り」に採り入れたのではないか、と指摘する。
それで到来するメシアについて予見し、幻視して述べる。「彼には見るべき姿がなく、威厳もなく、慕うべき美しさもない。・・悲しみの人で、病いを知っていた。・・まことに彼はわれわれの病いを負い、悲しみをになった。」(イザヤ53章)
イザヤが示した救い主は強い万軍の主ではなく、病者の悲しみを知り、それを自らに負うている傷ついたメシア、悲しみのメシアなのである、と説く。(山形 136-40頁)。私はこの説明で漸く大きな納得を得た思いがしている。(この歳になって。それほど聖書は容易な書物ではない。)
2 イザヤが難解なわけ。上とは別の一般的な点を二三あげてみたい。
2-1 聖書学者も第二イザヤについて、その理解にとって最も大きなまた困難な問題は預言のまとまりをどの範囲に取るかである、と書いている。(関根正雄「イザヤ書下」1965年 解説206頁。)旧約の韻文で記された預言や詩歌は、しばしばそのまとまりがどこからどこまでなのか、誰が誰に、何について述べているのか、判然としないことがある。第二イザヤは特にそうだと言うのである。
2-2 難解なもう一つの理由は、預言者や語りかけられた人々の置かれた状況が、時空の両面で現代の我々と縁遠いことがある。差し迫った捕囚や捕囚のただ中にある状況を、アッシリアの恐さを肌では知っていないのである。
2-3 もう一つは読者であるわれわれ(21世紀のアジアに住む市民・異邦人)は、紀元前のイスラエルの民になり切ってその意識で読むことは難しいからである。
類似の投稿 2018.10.05 「ユダヤ人の預言の仕方」
ところがモルモン教会は、末日に関する重要な啓示がおさめられた預言の書・・・なんてことを言ってますが、イザヤ書の作者がそんなことを知ったら「はぁ?モルモン教会? なんじゃそりゃ、そんなもののために私は書いたんじゃない」って思うんじゃないかな。
まぁしかし、イザヤ書のメシア預言を勝手にこじつけてイエスこそキリストなり、ってやっちゃったのがキリスト教ですからね。それからさらに思いつきで教義を上塗りして別物に変貌させちゃったのがモルモン教。
キリスト教とモルモン教により2段階もの超絶こじつけ解釈を経ているのだから、原著の意味するところなんて分かろうはずもありませんわね。
私は日曜学校の教師だったので一昨年のイザヤ書のレッスンではどう話をしようか悩みましたよ。結局こんな風に説明しました「イザヤ書は元々ユダヤ人のために書かれた預言であるが、後のキリスト教徒がイザヤ書の中にイエスに関する預言に違いないと信じられる個所をいくつも見出し、イザヤ書はキリスト教にとっても重要な書になっている、同様に我々末日聖徒も末日に関する預言だと思える個所を見つけ出してイザヤ書を読んでいるのだ」と。
もちろん、ちゃんと「もっともユダヤ人からすればキリスト教徒や末日聖徒のやってることは勝手なこじつけだ、と思うでしょうね」と事実も言いましたよ、私は。日曜学校の教師ならきちんとこの辺まで教えるべきです。
まぁお仕着せのテキストを片手に、そらで覚えた受け売りの教義を暗唱してるのがモルモン教会の一般的な教師ですからねぇ。
末日の・・・いや現代の人間がイザヤ書を理解できない理由ってニーファイ書に書いてますね、ユダヤ人の風習を知らないからって。これはジョセフもそう思ってたんでしょうかねぇ。実のところ理解できない本当の理由は、後世の人間(キリスト教およびモルモン教)によるこじつけ解釈で読み取ろうとするからってことですわ。
お育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
イエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。(ルカ4)
ユダヤ教の人々は「主のめぐみの年」にはヨエルの年の実現という特別な意味があって、50年に1回、借金の棒引きと奴隷の解放、売ってしまった先祖の土地の無償返還が約束されていて、しかし残念ながら長年の形骸化で何の楽しみも無い単なる聖句状態だったのこと。
そこでメシアが待たれていた環境が整っていたわけで、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」という意味は、イエスは自分が待望のメシアであるということを、イザヤ書を引用して婉曲法で宣言したことになるそうですよ。
ルカの著者が嘘つきでなければです。
モルモン教会の発展も、野火のように広がった初期の開拓者の原動力として、教会員になれば破格の貯金と引き換えに自分たちも農場を持てるという、経済格差の解消があったものと思われる。 ところがその銀行が潰れてしまい、路頭に迷うことでジョセフスミスへの憎悪が広がった構図に似ています。
しかしルカの福音書の成立はイエス死後のずっと後であり、すでにユダヤ教から完全に決別して変貌した新しい宗派であるクリスチャンの教義を教え広める目的で書かれたものです。それはルカの福音書の出だしに、テオピロ閣下へ献呈する旨が記されていることから拝察されます。
ルカの福音書が事実の記録であるという文脈に沿って思考を展開すること自体がすでにイザヤ書を読み替えた者の術中に嵌っていると言わざるを得ません。要するにキリスト教という領域内から観点を外へ移さなければ真実は見えないということです。
旧約聖書に記された天地創造をそのまま事実と受け入れている者が生命の起源に到達することはなく、ノアの洪水をそのまま事実と受け入れている者が真実の歴史に到達することはなく、バベルの塔で人々の言葉が乱されたという記述をそのまま真実だと受け入れている者が言語学に到達することはない、それと同じです。
もちろん聖書の記述をそのまま歴史記録だと思い込むことで平安な人生を送れるのだと心から信じている人には、考えを変えろとは申し上げません、どうぞそのままでお幸せにお暮しいただければと思います。
しかし歴史的事実の追及をするのであれば、聖書およびモルモン書に対する思い込みは不要でありむしろ害悪でしかないのです。
この人が言う解説とはニーファイ書のことであろうが、私はこういう人をモルモン教会でよく見かけるが、そのたび「何とも幸せな人だなぁ」と思う。自分はモルモン教会に従っている、だから全て良し、という思考なのである。彼らは何も疑問を持たない、持つことすら彼らにとっては罪であるから。
かたや私は、モルモン書がジョセフ・スミスによる創作であるということに何の疑問も抱いてはいない。しかしだからと言って、私はモルモン書を金版の翻訳であると信じて疑わない人たちに、その思い込みを無理やりにでも覆してやろうとはなるべく考えないようにしている。彼らにとってはそうやって人生を終えることのほうが幸せなのかもしれない、と。
ただ、いつまでたっても真実には到達できないだけで、それと引き換えにしてモルモン教会で幸福を感じるほうを選択するのもまた良しなのかも知れない。
>それを自らに負うている傷ついたメシア、悲しみのメシアなのである、と説く。(山形 136-40頁)
この辺りは新約聖書的ですね。
なんでもイザヤ書は66章で構成されていて、不思議なことに新旧約聖書全体も66書。
つまり古代のクリスチャンたちはイザヤ書の構成を手本に新約聖書を付加したと。
後世の人々にとって固きパンであろうイザヤ書を「喜ぶ」と表現したのは聖書全体の壮大な神の愛である救いの教義を観たからでしょうか。
長っ!と敬遠しがちなイザヤ書。その辺りに着目して今一度読んでみたいです。
ヘブル語原典のイザヤ書に章なんてありませんよ。キリスト教によって聖書の章ができたのは1200年代。
http://seishonyumon.com/movie/1851/
オムナイさんって歴史を知らないモルモン教徒がいつまでたっても事実に到達できない好例ですね。お幸せに。
でしょうねー。
そこですか?という感じですね。
kizukaさんにしては大人気ないツッコミw
http://shinjukunishi-ch.holy.jp/2019/04/24/「運命の逆転」/
・・
イザヤ書という書物は不思議な書物です。イザヤ書は聖書の縮図と言われます。
旧新約聖書は66巻。 イザヤ書は66章。
旧約聖書は39巻。 第1部は1-39章、
新約聖書は27巻。 第2部40-66章(27章)、
内容から見ても第1部は聖なる神の召されつつも選民失格となる姿
第2部ではバビロン捕囚の絶望から「慰めよ、慰めよ」との福音の宣言。
まさにイザヤ書は聖書の縮図、旧約聖書と新約聖書を含んだ神の言葉!
・・・
なんと新約聖書27巻と第二イザヤの27章も一致!だとか。
興味をそそるための導入的話題ではあるんでしょうね。
金板に章があったのかー。
となりそう^_^