雨が止んでいる。雨粒が葉っぱの先に来てふくらんでいる。まだ落ちないでいる。太くなる自分の重力に耐えている。ぎりぎりのところで耐えている。光っている。水晶になっている。完成の一歩手前というのはこれほどに美しいのだ。
欲望充足にもステージがありそうだ。
ある人はステージ3くらいで安心を勝ち得ている、ということもあるだろう。Aのひとはそうであっても、Bの人はまるっきりそうではない、ということもありうるだろう。
Cの人は欲望充足の段階がステージ8のところまで高くなっても、その高さを意識できない、ということもあり得るだろう。高い位置にいるのに彼は、低い位置にいるAの人よりも多くしぶとく不満を抱え込む。
追求すればするほど遠退いて行くのかもしれない。欲望が肥大して、肥大に着せる服がなくなってしまうかもしれない。
欲望が大切なのか。欲望追求が大事なのか。そうではなくて、安心すること、充足することが第一義なのか。それはその人によるだろう。その人の生活の暮らしぶりによるだろう。
小欲知足。欲望を小さくしても足ることを知れば安心の顔になれる。そうなれるのに、しかし、そうしない。まだだ、まだだ、まだまだだ、と追及の手を怠らない。
そうすれば高級な生活が手に入ると思って、思い込んでしまう。でも、そうじゃないかもしれない。大欲には大苦悩がつきまとう。大欲に比して苦悩が巨大化してしまう。そういうこともありうる。
新約聖書に、「野の百合を見るがいい」というフレイズがある。若い頃に、このフレイズに何度も救われた。劣っている自分をこのフレイズで慰めた。
優れていること、劣っていることは、比較をした場合にのみ起こりうることだ。人間の優劣なんて、ないのだ。神様の目で見れば、きっとそうなのだろうと思う。それを優劣をつけて翻弄されることになる。
老いた。もう先が見えた。さらにこれ以上の満足を求めなくてもいい。その日を暮らして行けたらそれでいい。心身健康で暮らして行けたらそれでいい。進歩も発達も止めていい。その世界観を得ればずいぶん楽なように思える。
庭に赤いテッポウユリが咲いている。咲き遅れた一輪が咲いている。家内がこれを摘んで来て、台所の食卓に飾った。これを眺めている。眺めていればいるほど美しく厳かに感じられて来る。
雨になった。本降りだ。
それほど降るまいと甘く見て、外に出て、畑をちょいと見て回っている内に、ずぶ濡れに濡れてしまった。
大慌てで戻って来た。下着まで着替えねばならなかった。
ふふ、一日に一度は畑に出てみたい。西瓜やマクワウリが太っているのを確かめたい。
見たからといってもどうするものでもない。安心をするだけである。順調に育っていることを確かめて安心をする。
こんな楽しみもある。あるもんだ。たあいないけれど。児戯に等しいのだけど。
雨が畑の土を潤した。カラカラに乾いていたから、雨は深く深く染み通って行ったであろう。野菜たちがほっと一息を就いたであろう。
もうすぐ夕方の5時になる。空は灰色を深めている。この調子だと畑に小川が流れるかもしれない。今夜もずっと降りそうだ。
ようやくに雨。待ちくたびれた雨が、畑を潤すために、どどみみふぁそらと降っている。
どどみみふぁそらと里芋の葉っぱも歌を歌いだした。里芋畑は合唱曲のコンサートホールだ。響きが甲高い。
青蛙が、庭の姫林檎の木の高いところへ登って飛び跳ねているのが見える。久しぶりの雨だからじっとしていられないのだろう。
僕は書斎に閉じ籠もって窓の外を眺めて過ごしている。YouTubeの音楽を聴くまでもない。雨も蛙も里芋の葉っぱもコーラスをしているから、それを楽しめばいい。