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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 琉球絣

2021-08-24 20:39:58 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「琉球絣」

 琉球絣とは?
 琉球絣(りゅうきゅうかすり)は、沖縄県で織られている織物です。主に絹糸を使用した織物で、草木を原料とした染料のほか化学染料等が使われています。
 琉球絣の特徴は、およそ600種にものぼる多彩な沖縄の自然や動植物を取り入れた図柄です。図柄を活かして織られた反物が中心で、夏季に使用する壁上布(かべじょうふ)と言われる織物も生産されています。爽やかで美しい独特の幾何学模様の図柄は、琉球王府時代から伝わる御絵図帳の図柄が元です。古来の伝統の図柄に時代の感覚を取り入れて、職人がオリジナル模様を作ってきました。
 糸を染め上げる際は、図柄をもとに模様部分を1カ所ずつ手括りで締め上げていくという手間のかかる作業によって独特の絣模様を作りあげます。
 琉球絣の織りは、緯糸を経糸の間に道具を投げ込んで手作業で織っていくという昔ながらの技法です。日々1~2メートル位ずつを職人が丹念に織り上げていきます。

 History / 歴史
 14~15世紀に中国、東南アジアとの貿易が行われたことから琉球王国へ織物技術が入ってきました。琉球絣は、沖縄王府に収める貢納布(こうのうふ)として織られるようになります。
 貢納布は、首里王府の絵師がつくったデザイン集である御絵図帳(みえずちょう)の図柄を織物に完成させたものです。デザインや染色、織物技術は発展し琉球絣の製造には島の女性たちが従事していました。
 明治時代になると商品として琉球絣が市場に出回り、大正時代から昭和時代の初めごろには沖縄県は多くの織子を養成しました。その後、絣織物の技術者の移住などにより産地としての基盤が固っていき、民間の工場も設立され沖縄県は絣の産地へと発展を遂げました。
 第二次世界大戦が起こると資材の供給が止まり、織物工場は閉鎖されます。産地は戦争の激戦地となり、多くの生産技術者の命と生産設備が奪われました。戦後、琉球絣は先祖から受け継いだ伝統に現代の感覚を加えて復活し、魅力的な多種類の模様と豊かな色柄で様々な服飾品やインテリア用品が作られています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/ryukyukasuri/ より

 祖母と父が残してくれた宿題に取り組む
 東南アジアとの交易によって伝えられた絣は、沖縄から日本各地に広がっていった。沖縄の織物にはたいてい絣柄が取り入れられている。一大産地である南風原町で作られたものを琉球絣と呼んでいる。

 
 絣の柄は暮らしの道具や動植物から
 十種類もの織物がある沖縄で、圧倒的な生産数をほこるのが琉球絣である。秘密は、分業制と合理的な手法を取り入れていること。絣を括るときに「絵図式」という方法をとるので、織り手は絣模様のズレをさほど気にしないですむ。1週間で一反というスピードで織ることができるのである。
 分業は、デザインと絣括り、染め、織りの準備、織り、と分れていて、何人もの人の手を経て完成する。大城織物工場でデザインと染めに取り組む大城哲さんにお話をきいた。
 琉球絣の柄は500種類もある。トウイグワァ(つばめ)、ティズクウン(げんこつ)、ジンダマー(銭玉)、コウリグム(雲)など、身の回りの品や動植物を図案化したものだ。
 「伝統的な柄はくずせないので、配置や大きさを変えたり、組み合わせたりしてデザインを決めます。新しく考えるというよりアレンジですね。祖母や父の時代に作られていた見本があるので、それを見ながら今の時代に合ったものにしていきます。」
 哲さんは90年に父の清栄さんから家業を継いだ5代目。祖母のカメさんも大胆なデザインをする作家としてよく知られていた。
 「うちには、おやじのころ、ばあちゃんのころ、もっと前の見本もある。たくさん物を見ないと新しいデザインは浮かんでこないから、これは強みですね。」という。


 微妙な変化が出る草木染めの魅力
 祖母の血をひいたのか、哲さんの作品は色使いが大胆だ。草木染めが基本だが、それだけにこだわってはいない。
 「私は化学染料を使ってもいいと思っています。草木染めでカバーできる色の範囲は狭いし、最近は染材を手に入れることがむずかしくなってきています。山で簡単に木を切ってくるわけにもいきませんから。」
 黄色が出るフクギの皮が手に入ると、ストックしておく。月日がたつと、染まる色がレモンイエローから渋い色に変っていく。哲さんは、そんな微妙な変化が起きる染めがおもしろくて仕方ないようだった。草木の場合、相思樹、ヤマモモ、イジュ、ティカチ、ゲッキツ、ホルトの樹などを、銅、鉄、みょうばんで媒染して色を出す。染材と媒染の組み合わせ、回数によって何千通りもの色が出る。つきることはない。染めだけで一生かかるという。


 昔の高い技術に追い付きたい
 糸がうまく染まっても、思った通りの作品になるわけではない。
 「色も柄も、自分が思い描いていたものとピッタリ重なることはほとんどありません。いいのができたなと思って織ってみるとアレッとなったり。逆に意外によかった、というときもありますけどね。」
 経糸と緯糸が重なって初めて布は生まれる。括りや染めの成果は、織ってみないとわからないのである。
 「祖母と父の時代に作った、ものすごく細かい絣があるんです。今の目標はこれですね。各工程にプロフェッショナルがいてできたものなんですが、自分の染めの技量がまだ追い付かない。技術というのは、その人が確立していく部分が大きいから、やっぱり経験しかない。昔の技術力はすごい。やらざるをえません。」
と哲さんは力強く話していた。


 職人プロフィール

 大城哲 (おおしろさとる)

 1963年生まれ。日本伝統工芸展に入選。日本工芸会正会員。


 こぼれ話

 琉球絣の町、南風原町で親子3代

 那覇市の隣に位置する南風原町は、琉球絣の産地として知られています。「沖展」などの展覧会に出品している大城廣四郎織物工房の大城一夫さんも、機の音を聞きながら育ちました。子供のころから父親の廣四郎さんの手伝いをし、デザイン、括り、染めの仕事について32年になります。
 「町の人もみんな織りの仕事をしていましたから、ごく当たり前にこの世界に入りました。だんだん物作りのおもしろさにはまっていきました。」といいます。
 南風原町は戦後、織物によって沖縄の中でもいち早く復興をとげました。「沖縄中部、北部は米軍関係の仕事をする人が多かったのですが、ここには基地がなく、昔からあった織物に力が注がれたのです。」
 機や材料は失いましたが、技術は残りました。戦前の産地だった那覇の泊からも技術を持った人が集まってきました。効率のよい分業体制で、絣括りに合理的な手法を取り入れることで、手織りながら生産数を増やすことができました。現在は、年間約5500反が作られています。
 一夫さんは、「作るのは楽しいが、売れないとどうしようもない。職人というのは、売れたときがうれしいんですよ。」と笑います。一緒に仕事をしている息子の拓也さんは、デニム地の絣を作って東京のファッション関係者からも注目を集めています。南風原からは常に新しい動きが出ています。

*https://kougeihin.jp/craft/0130/ より


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