「京扇子」
Description / 特徴・産地
京扇子とは?
京扇子(きょうせんす)は、京都を中心に作られている扇子の名称です。竹と紙あるいは絹を主な材料としてのみ用い、竹は京都丹波地域の真竹がよいとされ、金銀箔(きんぎんはく)や蒔絵(まきえ)などの絵付けを施した京扇子は、高級美術品として古くから珍重されてきました。
京扇子の特徴は、実用的なものから婚礼などの儀式に使われるものまで、豊富な種類があることです。何枚もの薄い桧板を重ねた桧扇(ひおうぎ)をはじめ、5本~6本の細い板に和紙を貼った蝙蝠扇(かはほりおうぎ)、能扇や舞扇、茶席扇や祝儀扇などがあります。素材や製法によって貼扇(はりおうぎ)と板扇(いたおうぎ)の2種類があります。貼扇には紙扇(かみせん)と絹扇(きぬせん)があり、板扇と言われるのは白檀などの香木を薄くした木片を重ねて作った扇です。
すべてに共通して、多くの職人たちの分業によって作られることで、制作工程の数は実に八十七と言われています。熟練した職人たちの手仕事で生み出される京扇子は美しさだけでなく、使う人の手によくなじみ、扇骨(せんこつ)の数が多い京扇子であおいだときの風はしなやかです。
History / 歴史
京扇子 - 歴史
京扇子は平安時代の初期、木簡から派生したのが始まりと言われています。日本最古の扇とされるのは東寺の仏像の中から発見された扇で、877年(元慶元年)にあたる「元慶元年」と記された桧扇(ひおうぎ)でした。
平安時代の中期になると、蝙蝠扇(かはほりおうぎ)が夏の扇として使われるようになります。また、藤原時代には天皇や皇太子の桧扇なども作られ、室町時代になると唐扇に影響を受けて竹と紙で作られた紙扇(かみせん)も登場します。扇子は平安時代の頃より単にあおぐだけでなく儀礼や贈答などに用いられていました。しかし、能をはじめ、香道や茶道などに使用する扇子を作るようになるのは室町時代以降です。
京都は江戸などの国内に限らず、13世紀頃には中国などの海外にも扇子を輸出していました。京扇子はインドからさらにヨーロッパにも伝わり、西洋風の扇子に姿を変えたと言われています。海外に輸出された扇子はその後逆輸入され、絹や綿布を使用した絹扇(きぬせん)が誕生しました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kyosensu/ より
洗練された手仕事から生まれる奥深い美の創作
京都で生まれ、日本文化の風情を代表する扇子。人のこころに華やかさと安らぎを与える京扇子は、貴族社会の象徴として平安時代に桧扇として発展した。冬扇・夏扇(桧扇・蝙蝠(かわほり)扇)をはじめ、室町以降は香道・茶道・舞踊とそれぞれに用いられる扇が作られてきた。
竹と紙の造形美に工房を訪ねる
京扇子の製作工程は細かく分業化されており、扇骨(せんこつ)加工・地紙加工・加飾加工・折加工・仕上加工と、それぞれ専門の職人によって分業化されている。今回の取材では扇子の素材そのものである「竹」と「紙」にスポットを当て、扇骨と加飾の工房を訪ねた。
昭和の時代背景をそのままに生きて
扇骨師、滝下勝明さんは、紙扇と絹扇双方の扇骨を作る数少ない職人。一口に扇骨と言っても、通常この工程で職人は「紙扇」と「絹扇」の扇骨師に細分化される。異例とも言える2種類の扇骨を作るきっかけとなったのは、「これからは紙扇だけしか出来ない、というのでは立ち行かないかもしれないから、絹扇の骨の作り方を教えておく」という親方の一言だった。昭和25年終戦後の動乱の中、当時18歳だった滝下さんは郷里富山から「手に職をつけたい」と京都へ。数ある職業の中から、扇子の骨を作る仕事に惹きつけられる。当時職人は世襲制で、扇骨師の子供は12歳頃から親方のところに修行に出た。数年間の無給での修行が終わると、お礼奉公が約1年。そういう時代だった。入門時18歳だった滝下さんは、すでに手が硬くなりかけていて、親方に教えられても思うようにうまく道具が扱えなかった。住込みでの修行。休みの日に遊びに行けるような余裕も、お金も無かった。年下の兄弟子たちが遊びに行くのを見送りながら、ひたすら道具を握り続ける。そんな修行時代だった。昭和30年代、クーラーが出始める。夏扇の扇骨を作る仕事は激減し、同業者の廃業が相次ぐ。親方から「自分の人生やから、この業界に留まれとは言えん。自分でどうするか決めてくれたらええ」と言われた。ショックだった。「今思えば、あの時そう言われた私より親方の方が辛かったと思います。手塩に掛けて育てた弟子を手放さないかんかった訳ですから」2日か3日か、これまでに無い程悩んだ。「けど、修行時代があまりにも辛かったので、そこで辞めることができなかったです」後2~3年様子を見てからでも辞めるのは遅くないと、続けること決意した。
人に喜んでもらえる仕事を
18の時、初めて京都に出てきた時見た「蝙蝠(かわほり)」。「いつか自分もこういう扇が作れたらなあ」と思った。「この世界に入るきっかけとなった」その扇を、去年滝下さんは作品展に出した。「これを自分も作れるようになったんだなあと思うと心に感じるところ」があった。握り・開き・締まり具合と扇の実用面での要となる扇骨。職人として「残りの人生を、1つでもいいもの・ひとつでも納得のいくものを作りたいです。“これはいい扇だなあ”と人に喜んで貰えるものを作りたいです」と結んだ。
地紙に鮮やかな色をのせる上絵
「東京オリンピックの時には、万からの扇を仕上げました。紙は重たいから、天井が抜ける言うて二階の仕事部屋に紙は置かれへんほどでした」舞扇の上絵師 香川数豊さんは、箔押しが専門の奥様と二人、机を向かい合わせて上絵を描いてきた。毎年歌会始の御題が決まると、それぞれの家元から「踊り始め」の扇について相談が来る。御題に掛けた図案は、家元の好みを考慮し数枚の見本を作る。難しいのは色合わせ。「この古扇の色目を」と指定されても、上絵の顔料は経時変色が激しいため、新しい顔料で経時変化した色目を出すことは至難の技。通常は3~4色の色を重ね色目を作っていくが、ものによってはこの作業だけで半日かかるという。「面白い話があってね」と香川さん。「ピース(煙草)の箱に描かれた青」で色の指定がきた時のこと。色目を合わせ何度持って行っても「違う」と言われる。しかしどう見ても手元にある「ピースの青」と「扇の青」は同じ。考えあぐね「この青とピースの青は私の目には同じなんです」と煙草の箱を持参すると、実はお互いが持ち合わせていた「ピースの青」は印刷色が違っていた。色目にこだわり続ける香川さん。百貨店に行っても「ついつい着物・洋服・小物など“色の流行”に目が行く」のだという。「好きで始めたことやから」。この道50年。ぼかし、霞がけ。現役73歳の絵師の筆先から、西川流を主として各流派の舞扇に美しい流線が描かれていく。
職人プロフィール
滝下勝明 (たきしたかつあき)
昭和9年1月20日生まれ。
京扇子扇骨師
伝統工芸士
京都市伝統産業技術功労者
現在、京都扇子団扇商工協同組合理事を務める。
香川数豊 (かがわかずとよ)
昭和3年1月1日生まれ。
京扇子上絵師。
京都市伝統産業技術功労者
京扇子伝統工芸士会会長
京都扇子団扇商工協同組合副理事長
こぼれ話
扇のある町並み
かつて「骨屋町(ほねやまち)」とまで呼ばれた岩上通り。この界隈全体に扇骨師が住み、真竹を打ち、竹を削る音が昼夜を問わず響いた。晴れた日には、目打ちした扇骨を近隣に干すのが有名で、観光バスで紹介されるほどだった。少しでも仕事場に近い所に扇骨を干そうと、職人たちが競って場所取りをした。町並みに漂う、水につけ置きされた「竹」独特の匂いも風物詩のひとつだった。扇に心を描きとめる
扇は携帯できる美術品。人生の節目に、その時々の新鮮な心を扇に記してみてはどうだろう。ものごとに初めて第一歩を踏み出す。その瞬間の“初心忘るるべからず”。言葉でも、絵でもいい。自分自身の決意や、想いを扇の上絵に写す。くじけそうになった時、辛くて下ばかり見てしまう時。新たな目標を掲げた時。扇に記された“一言”が自分の進もうとする方向を示してくれるかもしれない。
扇の上絵を絵付けさせてくれる体験教室もある。京都を訪れた記念に、その季節・その時の思いを描きとめてみるのもいい。
*https://kougeihin.jp/craft/1411/ より
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