「宝厳寺」
宝厳寺(ほうごんじ)は、滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院。山号は巌金山(がんこんさん)。本尊は大弁才天。観音堂は西国三十三所第30番札所で本尊は千手観世音菩薩。観音霊場であるとともに、弁才天信仰の聖地でもあり、日本三大弁天の1つにも数えられる(他の2つは大願寺、金亀山与願寺とされている)。
本尊真言(千手観音):おん ばざら たらま きりく
ご詠歌:月も日も波間に浮かぶ竹生島(ちくぶしま) 船に宝を積むここちして
概要
琵琶湖の北端近くに浮かぶ竹生島に位置する。竹生島は周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルほどの小島で、国の史跡・名勝に指定されている。島の周囲は南東部にある船着き場を除いてほとんどが急な断崖になっている。島には宝厳寺と都久夫須麻神社の他にはみやげ物店が数軒あるだけで、文字通り信仰の島である。現在は宝厳寺と都久夫須麻神社という「寺」と「神社」に分かれているが、このように区別されるようになったのは、明治時代初期の神仏分離令以降のことであり、竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていた。
歴史
宝厳寺は奈良時代、僧・行基が開創したとされている。行基は出身地の河内国(現・大阪府東部)を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願によって行基が浅井姫命(あざいひめのみこと)を祭神とする都久夫須麻神社がある竹生島を訪れ、大弁才天を祀ったのが起源とされている。しかし、承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には、行基の来島は天平10年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したとある。
当初は寺名を本業寺(ほんごうじ)[1]といい、東大寺の支配下にあったが、平安時代前期、10世紀頃から近江国の他の多くの寺院同様、比叡山延暦寺の傘下に入り、天台寺院となった。以降、島は天台宗の僧の修行の場となった。
境内の隣にあった都久夫須麻神社は延喜式神名帳にある通り、浅井姫命を祭神とする近江国浅井郡の神社であったが、浅井姫命は浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する水の神ともいわれることから、平安時代末期頃にはこの神は、仏教の水の神である弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視されるようになっていくと、ついには弁才天と同一とされる市杵島比売命も祀るようになり、神仏習合が進んで都久夫須麻神社は当寺と一体化していった。本尊大弁才天を祀る当寺の本堂は現在の都久夫須麻神社の本殿であったことからもわかるように、寺と神社の区別はなくなっていき、寺名と社名も合わさって竹生島大神宮寺や竹生島権現などと名乗り、観音と弁才天信仰の島として栄えた。後には宝厳寺とも呼ばれるようになった。
中世以降、貞永元年(1232年)、享徳3年(1454年)、永禄元年(1558年)などに大火があり社殿が焼失したが、その都度復興している。永禄元年の大火後、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が片桐且元に命じて伽藍を復興している。この際復興されたのが唐門、観音堂、渡り廊下、その渡り廊下と繋がっている本堂(現・都久夫須麻神社本殿)である。唐門は豊国廟(京都の東山にあった豊臣秀吉の霊廟)の唐門(極楽門ともいい、元は大坂城の極楽橋の唐破風造部分である)を移築したものであり、本堂(現・都久夫須麻神社本殿)は豊国廟あるいは伏見城の日暮御殿を移築したものとされる。
江戸時代となっても当寺は弁才天信仰と西国三十三所観音霊場の札所として大いに賑わったが、明治時代となって神仏分離令が出されると、時の政府は本堂である弁才天堂を平安時代の『延喜式』に見える「都久夫須麻神社」という社名に変更することを強要し、1871年(明治4年)には大津県庁より仏教寺院としての宝厳寺は廃寺するように、との命令も出されて危機を迎える。しかし、寺側は大弁才天は神道の神ではなく仏教の仏であると主張して譲らなかった。結局、竹生島の信仰施設は宝厳寺と都久夫須麻神社に分離することになり、1874年(明治7年)に「寺」と「神社」の境界が決まり、これまでの寺の本堂が分離した都久夫須麻神社の本殿となった。1883年(明治16年)には寺の財産と神社の財産が区別されて今日に至っている。現状、宝厳寺と都久夫須麻神社は別法人であるが、宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿は渡り廊下で直接連絡しており、両者はもともと不可分の関係にあることがわかる。
寺・社分離以来、本堂がなかった宝厳寺であるが、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に現在の本堂が建立され、再び本尊大弁才天が祀られた。
2013年(平成25年)4月から2020年(令和2年)3月にかけて唐門・観音堂・舟廊下の全体修理が行われた[2][3]。全体修理は1946年(昭和21年)以来である。修復内容は、檜皮葺の全面葺き替え、彫刻などの彩色修理、漆の塗り直し、飾り金具の鍍金などが行われた。
境内
本堂(弁才天堂) - 船着き場からの石段を真っ直ぐに上りきった高台に建つ、寺内最大の建物。本尊大弁才天像を祀る。1942年(昭和17年)に平安時代様式で新築されたもの。荒井寛方による正面壁画「諸天神の図」と側面壁画「飛天の図」がある。
三龍堂
五重石塔(重要文化財) - 鎌倉時代後期。
妙音天堂
行尋坊天狗堂
もちの木 - 慶長7年(1602年)に片桐且元が植えたもの。
三重塔 - 本堂の向かいに建つ。近世に焼失して以降長らく失われていた塔で、2000年(平成12年)5月に再建された。
雨宝堂 - 神仏習合の両部神道における神で、天照皇大神が地上に降り立った時の姿である雨宝童子を祀っている。
宝物殿 - 1977年(昭和52年)築。
観音奉安殿 - 西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊を模した33体の観音像を祀る。
巳月館
鐘楼
唐門(国宝) - 船着き場から急な石段を上り、途中で右に入った位置に建ち、観音堂に接続している。極彩色の彫刻と飾金具で飾った華麗な門で、安土桃山時代の建築の雰囲気を伝えている。この門は慶長7年(1602年)に、豊臣秀頼によって豊国廟の唐門(極楽門)を移築したものであることが『梵舜日記』にみえる[6]。2006年(平成18年)にオーストリアのエッゲンベルク城で発見された『大坂城図屏風』に描かれた、大坂城の極楽橋の唐破風造部分と特徴が一致することから、極楽門は極楽橋より移築された、豊臣時代の大坂城唯一の遺構である可能性がある。2013年(平成25年)から2020年(令和2年)にかけて、観音堂および渡廊2棟と共に大規模な修復工事が行われ、往時の壮麗な外観が復元された。
観音堂(重要文化財) - 入母屋造檜皮葺き。慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって豊国廟から移築。西国三十三所観音霊場第30番札所で、本尊の千手観音立像(鎌倉時代の作)を安置する。傾斜地に建つため、床下に長い柱を立てて支える懸造となっている。柱などの木部は総漆塗りで、天井には極彩色で菊、桐などの文様を描く。柱が床下部分まで漆塗りであるなど、各所に移築の痕跡があり、他所から移築されたものである。札所本尊の千手観音像は秘仏であり、開扉は原則として60年に一度である。
渡廊(低屋根、重要文化財) - 観音堂と 渡廊(高屋根)を結ぶ屋根付きの廊下である。慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって唐門と共に豊国廟から移築。秀吉の御座船「日本丸」の船櫓の用材を用いて建てたという伝承から、「船廊下」の通称がある。
渡廊(高屋根、重要文化財) - 渡廊(低屋根)と都久夫須麻神社本殿を結ぶ屋根付きの廊下である。来歴および通称は低屋根と同様。
護摩堂
月定院
瑞祥水 - 2002年(平成14年)11月に掘られた霊泉。
本坊
黒龍堂 - 八大竜王のうちの黒龍を祀る。1970年(昭和45年)建立。
文化財
国宝
唐門 附:棟札 1枚
法華経序品(じょほん)(竹生島経) - 金銀泥で草花、鳥などの下絵を描いた用紙に法華経を書写する。この種「装飾経」の早い時期の作例で、11世紀の作品。奈良国立博物館に寄託。
重要文化財
宝厳寺(建造物)3棟
観音堂
渡廊(低屋根)
渡廊(高屋根)
石造五重塔
絹本著色十六羅漢図
絹本著色釈迦三尊像
絹本著色如意輪観音像
絹本著色阿弥陀来迎図
絹本著色北斗九星像
刺繍普賢十羅刹女図額
刺繍阿弥陀三尊来迎図額
毛抜形太刀〈無銘(伝藤原秀郷奉納)/〉附梨子地桐紋蒔絵鞘
銅水瓶 弘安十一年銘
空海請来目録 附:観応元年卯月十日宗光寄進状 1巻
法華経分別功徳品 1帖
竹生島文書(312通)5巻、13幅、49冊、2帖、243通
銅印(駿河倉印) 1顆
国の名勝・史跡
竹生島
滋賀県指定有形文化財
絹本著色弁才天像
木造不動明王坐像
大般若波羅蜜多経 550帖
長浜市指定有形文化財
木造弁才天坐像
鰐口 1口
宝厳寺 滋賀県長浜市早崎町1664
*Wikipedia より
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