ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

「学びの庭」での生きた勉強 - 12 ( 旧内務省について )

2023-03-29 19:52:37 | 徒然の記

 〈 総務省内の元郵政官僚、元自治省官僚の対立とは、どういうものなのか。〉

 テーマは同じですが、今回は旧・内務省に関する情報を紹介します。1945 ( 昭和20 ) 年8月GHQが日本軍を解体した時、政府が閣議決定した〈 警察力の整備拡充 〉とは、次のようなものでした。

  1.  警察官数を定員の二倍にする。・・定員 9万2713人

  2.  騒擾事件・集団的暴動・天災などに対処するための、集団的機動力をもつ2組織の設置

    ・警 備 隊 ( 常時2万人、必要時には一般警察官により4万人編成 )

    ・武装警察隊  ( 軽機関銃、自動短銃、小銃、トラック、無線機などの武器・機材の整備 )

  3.  海軍なき後の領海警備のため、水上警察の強化。( 2万人)

 以上3項目が重点でしたが、さらにありました。

  「特高警察については大幅な拡充を計画し、「昭和21年度警察予算概算要求書」で、特高警察拡充・強化のために、1900万円を要求。」

 特高警察強化の内容は、次の7点でした。

   1.  視察内偵の強化・・共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止

   2.  労働争議、小作争議の防止・取締り

   3.  朝鮮人関係関係

   4.  情報機能の整備

   5.  港湾警備

   6.  列車移動警察、

   7.  教養訓練(特高講習、特高資料の作成)

 「政府・内務省は、警察力の武装化と特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを企図していた。」

 戦前の内務省の力を一番よく教えてくれるのが、「特高警察」ではないかと思います。横道へそれますが、息子たちのためには大切なことなので、今では誰も口にしない「特高」に関する情報を紹介します。

 「特別高等警察  ( 略して〈 特高警察 〉〈 特高 〉) は、日本の秘密警察で、国体護持のため無政府主義者、共産主義者、社会主義者、および国家の存在を否認する者や、過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的としていた。」

 「1928 ( 昭和3 ) 年には、内務省警保局保安課を総元締めとして、全国都道府県に設置された。」

 特高は左翼主義者だけでなく、過激な国家主義者も取り締まりの対象としていますが、主たる対象は共産党を中心とする左翼主義者の取り締まりでした。そうなると「小西文書」の現在では、総務省内の「自治省系の官僚」と「郵政省系の官僚」の間に別の対立要素が見えてきます。

 つまり、反日左翼報道を黙認する「郵政省系官僚」と、社会主義者を取り締まりの対象と考える「自治省系官僚」の対立です。小西文書が開いた「パンドラの箱」の中身は、「現業省庁」と「政策省庁」という図式でなく、「反日左翼勢力」と「頑迷保守勢力」の睨み合いだったのかもしれません。

 ここでもう一度ウィキペディアの説明に戻り、敗戦後の内務省とGHQの動きを紹介します。

 「1945年(昭和20年)10月、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否した

 「同年10月4日GHQは、特別高等警察や政府による検閲の廃止を指示、さらに内務省下の中央集権的な警察機構の解体・細分化を求めた。また、警保局や地方局を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。」

 息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、伝えたいと思う興味深い情報が次にあります。

 「内務省廃止の式典の最後に、中堅・若手の内務官僚が集まり、〈 必ず将来、内務省を復活させます 〉と、内務省の先輩に誓って解散したという秘話が伝えられている。」

 「式典の後、最後の別れの酒宴が開かれた席上で、居残り組(総理庁官房自治課)の中心である鈴木俊一が、内務省の先輩達に対して、〈 私があとに残って、必ず内務省を元通り復活させてみせます 〉と誓ったとされる。」

 「官庁の中の官庁」、「官僚勢力の総本山」、「官僚の本拠」と呼ばれる最有力官庁が、他国の干渉で解体させられるのですから、このくらいのことを言う人物がいてもおかしくありません。日本人の魂を持つ官僚なら、言わない方がおかしいと言う気もします。

 話がさらに横道へ進みますが、次回は鈴木俊一氏に関する情報を紹介します。

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「学びの庭」での生きた勉強 - 11 ( 元自治省・旧内務省について )

2023-03-29 14:37:27 | 徒然の記

 〈 総務省内の元郵政官僚、元自治省官僚の対立とは、どういうものなのか。〉

 今回は、上記テーマの自治省に関する情報を紹介します。

 「自治省は、1960 ( 昭和35 ) 年7月1日から2001 ( 平成13 ) 年1月5日まで存在した、日本の行政機関の一つ。地方財政、消防、選挙制度等を所管した。」

 ウィキペディアの冒頭の説明を読みますと、息子たちは、これが情報社会を管理する元郵政省に対抗している省庁かと、信じられない気持ちになると思います。

  ・1949 ( 昭和24 ) 年6月1日に、地方財政委員会と総理庁官房自治課を統合し、旧内務省地方局の流れを汲む「地方自治庁」が、総理府の外局に置かれた。

  ・1952 ( 昭和27 ) 年8月1日に、全国選挙管理委員会、地方財政委員会、地方自治庁を統合し、国務大臣 ( 自治庁長官 ) を長とする「自治庁」が、地方自治を包括的に所管する官庁として設置された。

 森全体を語ろうとしている時に、森の木の一本ずつを説明していてはらちが開きません。元自治省は旧内務省の分割された一部ですから、敗戦後にGHQから分割される以前の「内務省」を紹介する方が早道になります。

 〈 旧内務省について 〉

  ・旧憲法下の日本で内務省は、強大な権限の集中から「官庁の中の官庁」、「官僚勢力の総本山」、「官僚の本拠」などと呼ばれる最有力官庁であった。

  ・設立当初から国民生活統制の中核となったが、太平洋戦争 ( 大東亜戦争 )の敗戦後、GHQの指令によって解体・廃止された。

   ・内務大臣は、内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持つ官職とみなされていた。

  ・内務省は当初、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵省・司法省・文部省三省の所管事項を除く、内政の全般に及ぶ権限を有していた。

  ・その後、農商務省・逓信省など各省が独立し、内務省の所管は大正期には地方行政・警察・土木・衛生・社会 ( 労働  ) ・神道 ( 国家神道  ) の分野に限られるようになった。

  ・戦前の道府県庁は、各省の出先期間的性格が強かったが、内務省がこれを直接の監督下に置いていた。地方行政を通じて、各省の所管事項にも直接・間接に関与し、内政の中心としての地位を保ち続けた

  ・文部省は内務省の事実上の支配下に置かれていたため、日本の教育行政は内務省が主導していた

 この説明だけを見ても、内務省の権限の大きさが分かりますが、それでもまだ全体を説明していません。元内務官僚、元内務大臣だった後藤文夫氏の話を紹介します。

 「各省庁に対する内務省の影響力の理由の一つは、地方組織に対する監督権(特に地方財政監督権)があったこと。」

 「これにより、内務省の所管事項であった土木や衛生は勿論のこと、文部省・農林省・商工省・交通行政関係者に対しても、内務省の立場を非常に強くしていた。」「

 「このほかに内務省は、地方財務監督権(原案執行、起債認可、継続費の認可)も持っていた。」

 つまり、各省庁は何をするにしても、内務省の同意と協力を得なければならなかったということでした。内務大臣が総理に次ぐ副総理格の職位とみなされ、内務省が官庁の中の官庁」、「官僚勢力の総本山」、「官僚の本拠」と呼ばれていた理由も分かります。

 戦後生まれの私は内務省について、何も知りませんが、知っている人々、特に共産主義思想を持つ人々には忘れられない弾圧組織だったはずです。元自治省系の磯崎氏から見れば、郵政省は弱小官庁に過ぎませんから、議論をすると居丈高になるのでしょう。これでは元自治省・旧内務省系の官僚が、同じ総務省内にいてうまくいくはずがありません。

 対立の根源を知りますと、守秘義務違反をして小西氏に文書を渡した官僚と、受け取った小西氏の気持が見えてきます。同じ郵政系の官僚ですから、尊大な自治省系の官僚に対抗心を燃やしていたことになります。

 だからと言って小西氏と立憲民主党が、国会審議をストップさせて良いことにはなりません。

 「自治省系と郵政省系の人間は、年中喧嘩していますよ。もういい加減にしてくれといいたくなるくらいでしたね。」

 高橋洋一氏が「高橋洋一チャンネル」で説明していましたが、総務省内での対立が、そのまま国会と大分の選挙に持ち込まれたと言うことにもなります。国民にとっては迷惑な話ですが、似たような出来ごとが政界にはまだあるのかもしれません。せっかく小西氏が開いてくれた「パンドラの箱」なので、もう少し調べてみました。

 他省は一本化されているのに、令和5年の現在でも、総務省の事務系職員(キャリア事務官)の採用は一本化されておらず、依然として「旧総務庁系」「旧自治省系」「旧郵政省系」の3つに分かれたままだそうです。

 次もウィキペディアの情報ですが、知らないことばかりです。

 「1945 ( 昭和20 ) 年8月24日、政府は〈 警察力の整備拡充 〉を閣議決定し、陸海軍と憲兵の解体による治安維持の責任を、内務省・警察が担うことに決めた。」

 「日本の敗戦後、内務省は治安情勢の悪化に対応するため、警察力の増強と特高警察の拡充を行うつもりでいた。」

 敗戦と同時に、GHQが内務省を解体したと思っていましたが、そうではありませんでした。息子たちのためにも、歴史の事実を紹介しておきたいと思いますが、スペースがなくなりましたので続きは次回とします。

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