幸せだった日の思い出が
寄せる波のように
記憶の砂浜を濡らす
五月の海と太陽が
お前の笑顔と重なっている
忘れられないお前よ
冷たい冬の近づく部屋で
暖かい日の思い出が胸を焦がす
飲もうか
こんな日には禁酒をやめ
酔ってつぶれて泣いて眠るか
流す涙が 心の底にたまり
塩辛い海とつながっていくのだろうか
もうすぐ、過去のものとなる大学生活だ。こんな日には、思い出にひたるのもいいだろう。失ったものが甦るのは、記憶の砂浜に身を任せるときだ。消えた日々が波となって寄せ返し、打ち重なってかすかな調べを奏でる。
岩に打ちつけ、飛沫とともに大きく割れるのは、青雲の志が世間に挑む音だ。優しく静かにひた寄せる小波は、昔の恋の囁きだ。物音ひとつせず、日も射さない海の広がりは、孤独の果てしなさを教える。目を閉じて耳を澄ませば、学生生活の6年間が、記憶の浜辺に寄せ返す。
うねりの青の優しさに揺られていると、忘れていた少年の心で、追憶の波と戯れたくなる。記憶の砂浜は、人間だけがもっている心のふるさとで、疲れた魂が安らぐ場所だ。そんなときは、誰であっても詩人になれる。繰り返す波音の優しさに包まれ、素直になり、詠いたくなる。私のこころよ、きらめく言葉で語ってくれ。願わくば、私だけのことばで・・。
と、こんな具合に、大学6年生(24才)の晩秋のノートに、若かった日の自分が書きつけている。このような詩も文章も、今は書かないが、改めて「みみずの戯言」に写しとってみると、感慨深い。
24才にしては書けているでないかと、感心する反面、以来自分の書くものは、レベルアップしていなかったか、という失望も入り混じる。友人どもから、貧民窟と呼ばれた馬場のアバートの一室で、私はこれを書いた。入り組んだアパートの一階にある、安普請の角部屋は、一日中陽がささず、窓を開けても、見えるものは隣の建物の壁だった。昼間でも、電気をつけないと暮らせない、陰気な部屋は、安い家賃が魅力だった。
6年間大学にいたが、文字どおり居たというだけで、授業には出なかった。専門の学部の単位は取得済みで、在学するため教養科目をひとつ落とし、試験を受ければ卒業できるという状況だった。
きらめく言葉になっているのかどうか、分からないが、これを書いたのは、埼玉の小さな会社へ、就職が決まったのを機会に、二三日後に引っ越しをすると、心に決めたときだった。
どちらかと言えば、自分を陰気なペシミストだと思っているが、過去を振り返ると、お目出度いばかりの楽天家を発見する、驚きがある。恋に破れ、悲しい酒を飲もうとしていながら、恨み言ひとつ書いていない。
やせ我慢で、追憶の砂浜などと気取っているが、そんな心境では無かったはずだ。だが、もう済んだ話だ。「つらいことでも、過去になって振り返れば、懐かしい思い出に変わる」というのが、昔からのパターンだ。
金色夜叉の貫一みたいに、一生お宮を怨み、冷酷な高利貸しであり続けるような、根性のある人間とは違うのだ。いったん過去になってしまうと、憎んだ奴も怨んだ相手も、不思議なことに、すべて懐かしい思い出の中の人間に変わる。
いい加減とも見えるこの精神構造は、もしかすると、顔も知らないご先祖様から受け継いだ、有り難いDNAでないのかと、最近考えたりする。この調子で、何もかもがどんどん過去になり、一生が終われば、楽しい思い出だけを抱えて死ぬことになる。
まことに、ロシアの古い格言に似た理想の臨終となる。
「最後に笑う者が、最も良く笑う者である」・・・・・。表現が多少違っているかもしれないが、途中経過がなんであれ、死ぬ間際に笑って死ねるのなら、それが最高、という意味だ。はたしてそんな具合にうまくいくものか、こいつばかりは、生きてみなくては分からない。自分の最後を見届けるまで、簡単に死ねない理由がここにある。
この世をば どりゃお暇に 線香の
煙と共に ハイさようなら
勝ちどきの東陽院の門柱脇に、一九の辞世の句が刻まれた墓碑がある。