本日午前は、某所に伺いレッスンを聴講させていただきました。
小学校のときからよく知ってる子たち(現在は高校生)が、指導者によってどんどん変わっているさまを見せていただくのは、大変な喜びです。
世の中の動きとしては、こと音楽を専攻しようという子たちには大変厳しい時代になっているようですが、「自分が向上する」とか「変わることができる」ということを知るのは、後々生きる支えになっていくと思います。
今は「変えてもらってる」状態かもしれませんけど、そのうちセルフプロデュースする力へと変換していくのではないでしょうか?
考えてみれば、私は14歳になる前にピアノをやめてしまったわけですが、それでも今程度は楽しめているということで、あらためて親への感謝とさまざまな幸運を感じます。
夕方からは、友人宅(チェロコンチェルトソリスト)で、アマオケの弦楽器パートトップの方々との練習の立会(?)。
不在のパート、つまり管楽器・打楽器パートをスコアを見ながらピアノで補充しつつ、気になるところを一緒にチェックしていきました。
伴奏譜(オーケストラパートのピアノ編曲版)暗譜するほど弾いてきてますけど、あらためて管楽器だけ取り出して弾いてみると、
「え?ここオーボエだったの?」とか
「この和音は弦じゃなかったんだ?!」とか、今更な発見が多々あり(汗)、
スコア見ながらCD何回聴いてても、実はさっぱり頭に入ってなかったじゃん・・・・とあきれました。
極端な表現をすると、「平面だと思っていたのに立体だった」みたい箇所も多々。
悪い意味での「ピアノ弾き」(汗)。知らず知らずにうちに「音が点(打鍵と同時)で出る」ことが当たり前になっているんですよね。
オケの中で鍵盤を弾いたことは2回あるものの、体感としては身についてません。
まあ、私はいいんですよ。・・・・この先、プロの演奏家になるわけでもなし、発見や楽しみはあっても所詮道楽の域をでないわけなので。
やっぱりこれからの人、とくにピアノを志す子たちにはぜひぜひ、こういう体験をしてほしいですね。それはたぶん、CDやネットで大量のオーケストラ曲を聴くだけではダメなのではないかと。
ピアノのために書かれた曲だけに一生関わっていくだけでも大変なことなので、こういうことを考える時点ですでに「アマチュアだ」という意見もあると思いますし、自分でもそう感じるんですけど、やはり「ほかの楽器のことは関係ない」では淋しいです。
私の子供のころからの願いは、「ヴァイオリンという楽器を触ってみること」「弦楽器を弾ける友人を持つこと」でした。
実際、地方に住んでいたせいなのかなんなのか、子供のころはピアノを習っている子はいても、ヴァイオリンは皆無。高校になってやっと、ヴァイオリンで音大を受けるという同級生ができました。
その後また大学では、ピアノを弾く友人だけになり、社会に出てからはピアノを弾く友人もいなくなり・・・
というわけで、いったん離れてみると、楽器をやる人もクラシック音楽を好きな人も、世間にはほとんどいないような感じでした。
パーセンテージからするとそんなものなのかもしれないですね。
でも、10年20年とひそかに念じていれば、機会はめぐってくるものです(笑)。
そういえば・・ですが、
亡くなった父が、中学のときだか高校のときだか、どうしても触ってみたくて学校のヴァイオリンを借りて帰ったそうです。
メンテナンスもなにもされてない古い楽器だったのであろうと想像しますが、触っていたところブチっと弦が切れたらしい。
超のつく田舎のこと、親にも言えず、まして先生に申告するのも恐ろしく、弦を結んでこっそり返したそう(汗)。
その話から考えると、今うちにヴァイオリンという楽器があること自体が因縁深いといいますか、
父の代からすると、半世紀以上は念じたことになるのかもしれません。
・・・・・・ご縁です・・・・・