3月に入り、リサイタル・発表会目白押し。
もちろん全部には行けないし、全部のレビューを書くこともできないので、漠然とした感想になってしまいますが、今月は「行く」ことをまずは目標として、書く方は簡単に気楽に・・・でご容赦を。
3月上旬(3日と10日)、海外のコンクールでも活躍している、地元出身の若き才能二人のリサイタルを聴いてまいりました。
年齢も性別も、コンサートの形式(トークの有無)も違うものでしたけど、ショパンとリストがプログラムに入っており、シューマン=リストの『献呈』はお二人とも弾かれました。
『献呈』は、いい曲だなあと思いつつ、理由なく自分ではまったく手をつけない曲のひとつ(汗)。
聴き比べというつもりはなかったのですが、結果的にどちらも面白く聴かせていただきました。片や非常にリスト的、片や非常にシューマン的。
思えば、それぞれがリスト、ドイツロマン派を得意としておられ、その名を冠したコンクールに入賞しておられるので、当然といえば当然なのですが、
ではどこをどう弾けば、リストに聴こえて、シューマンに聴こえるのか・・・となると意図的に弾き分けるのはおそらく難しい。
以前、リストの曲ばかりを弾く会で、ある演奏者がこの『献呈』を弾かれ、「私は、リストを弾いてるつもりはさらさらありません」と言い切られて、私としてはウケてしまったのですが(シューマンにしか聴こえなかったので)、
リストが残した膨大なトランスクリプション群のなかでも、この『献呈』は弾く人によって、リストにもシューマンにも聴こえるという面白い曲のような気がします。
そういう意味では聴き比べがいのある曲かもしれません。
さて、どちらの方もショパンを弾かれました。
曲はまったく重なっていませんでしたし、それぞれどちらも巧いし、個性があったのですが、私にはどちらも「これがショパンだ!」な感じはしませんでした。
ショパンが得意でもなんでもない私がどれほどのものを聴き取ったかはあやしいものですし、まあ個性といえば個性なんでしょうけど、逆に「ショパンらしさ」とはなんなのか?というぐるぐる思考に陥りました。
これはあくまでも私の趣味なんですけど、・・・・ショパンの曲というのは、一見美しく綺麗に見えたり聴こえたりしても、パッと裏返すとヒリヒリするような痛みがつねにある。喩えが変ですけど、まぶたを裏返すと血管が張り巡らされた粘膜が露出する・・みたいな。
演奏者があまりにも精神的に疲弊しすぎても痛みは表現しにくいし、(精神的に)健康すぎても難しい。
一見普通に元気に暮らしているけど、ほんとは免疫力が弱くて、風邪をひいても、お腹を壊しても重症化の危険がある・・・みたいなあやういところに演奏者のメンタル面があると(というかそういうところに自分をもっていくんでしょうけど)、今鳴っている音の裏に、一瞬燐光のようなものが見える。
そのような演奏だった場合、テンポがどうこうとか、テクニックがどうこうという問題は抜きにして「ああ、ショパンだ」と私は感じるわけですけど、お前やってみろと言われたら一生にできそうにないことであります。
「らしく」真似することは、達者な子なら小さくてもできることなのかもしれないですけど、大人になってきちんと自分のものとして表現することが実に難しい作曲家のひとりであるなあ・・・・・と考えこまされたことでありました。