朝、模試に出かける息子を送り出して、「あ、そうだ」・・。10:30からコンペティションのセミファイナルがネットでライブ配信されるのでした。
それまで慌てて1時間半ほど練習をし、そのあとは「パソコンと私」(笑)。大量の書類ゴミを片付けながらの「すわりこみ」。
ずっとすわりこみというわけにもいかないので、洗濯したり、炊事やその他もやるわけですけど、たとえ音質が悪かろうと、配信が途中で固まろうと、どうしても聴いてしまう演奏というものはあるもので、今日はとくに午後からの4人はほとんど聴いていたように思います。
なんですかねえ・・・・いわゆる、「気」?
ずいぶん以前に、テレビをつけっぱなしで寝ていたことがあり、真夜中、静けさのなかでハッと目覚めました。次の瞬間に始まったのはベートーヴェンのソナタ31番のフーガ部分。演奏はバレンボイム。
テレビなどの「ながら視聴」の場合ですら、「おっ」とひきつけられるのは実は音が出てないような瞬間のことがけっこうあるんですね。
今日はわりと、音を出す寸前にディスプレイに目がいくケースがあり、だいたいそういう場合はこちらの期待を裏切らない音で演奏が始まりました。
逆に「あ、始まってた」という場合は、聴き逃したことを悔しく思うほどのことでもなく・・・・
たまーに人前で演奏することもある身としては、ちょっと考えてしまいましたねえ。
「音を出す前から演奏は始まっている」というのは、普通に言われることですが、聴く方も「音が鳴る前から鑑賞は始まっている」わけです。
しかも「ライブの演奏会場でないにもかかわらず」ですね。
「そういう演奏」でないといけないと思いますけど、弾く側としてはおそろしいことです。やっぱり演奏というのはなにかのやりとりなんですね。あらためてそう思います。
以前、代々「鼓」を打つ家のドキュメンタリーがありまして、そのなかで父子が激しい稽古をし(父は師匠)、終わって息子が、「今、魂のやりとりをしました」と語ったのが印象的でしたが、演奏する者とそれを聴く者にもやっぱりそういうものがあると思います。
今日はネット視聴ではありましたが、なにか確かなものを得た気がしました。