村上で大きな地震があり、、、自分にも心配しての連絡があった。
どれも、地震で心配してと言うよりはしばらく連絡をしなかったから気にして頂いて連絡を頂いたもの。
一夜明けた朝の忙しい時間に状況確認の電話を頂いたり、、、昼過ぎに頂いた電話は繋がらずに3度目だと言っていた。
改めて、色々な方に連絡を頂いて一人で生きているのに孤独を全く感じないありがたさの根本を感じる。
心から心配されているという安心感を与えて貰っているから自分はは孤独を感じないのだ。
そして、絶対的な肯定感を与えてもらっているのだ。
親、兄弟には全く感じない私への愛情や尊重を、、、
他の方から頂いて私の絶対的な安心感が生まれているのだ。
病気で社会から離れた生活を強いられ始めた時期からずっと支援をされ続け、周りに暖かく接してもらったお陰で、
自分の中の不安感はどんどん薄れて行き、代わりに守られている安心感、安堵感が増して来ていることを強く感じる。
叔母から貰った電話では暫く会ってなかったので長く話したが、勇気付けられるような話が多かった。
「何であなた一人にばかり次々と大変な事が起こるんだろうね。」
「大変なのに独りで何でもやりながら生活しているから偉いね。」
「誰にでもできる事じゃないよ。 強い精神力があるから出来ているんだよ。」
「思い出すとそっちも頑張っているんだから、こっちも頑張らないといけないと思うよ。」
周りの人間全ての面倒も見るような、全てにおいてすばらしく、自分など足元にも及ばない叔母から、そのような言葉を貰うとは思いもしなかった。
確かに自分でも「良く生きている」なと思う事はあるのだが、他の人には関係のないことだからそんな事を深く気にしてくれる人はいない。
挨拶程度に「何かあったら言ってね。」などと言われる事とは全く別次元なのだ。
冬場は部屋にこもっているから、動いて苦しいのは心肺だけでなく足腰が弱くなっている可能性もあると思うので足腰を鍛えないといけないと思う、などと言うと、
すかさず、
「心臓に負担をかけないように筋肉鍛えないといけないから 難しい事だね。 やりすぎると逆効果になるし。」
全く、全部お見通しなのだ。
普通の人に、「身体が訛るから動いたほうがいいよ。」などと無責任に言われて酷くストレスをかけられるのとは全く違うのだ。
想像してくれる事、気がついてくれる事、伝えてくれる事、実際に手を差し伸べてくれる事。
それらがこちらの想像を超えているから力強い安堵感を覚えるのだろう。
色々と話していると、自分の思いも整理されてくる。
余り小さな力では変わらないから自分の場合は強い力が必要なのでしょう。 だからここまで来たのでしょう。
でもそのお陰で、
いい時には気がつかなかった事が今の大変な状況で解った事は多いと思います。 などと話していた。
どの道に行っても、内面に問題を抱えている事で茨の道になったと思う。 自分でそうしてしまったと思う。
今となっては、それに気がつけた今の人生以外で無くて良かった気持ちが強い。
命の淵ギリギリまで経験させて貰えて、それでも周りには愛情深く支える事を当たり前のように出来る人が采配され生かしてもらえる人生を有り難いと、この上ない人生だと、思う。
健康でまともなサラリーマン人生では今の自分は無かった。
そこで止まって何も知らない自分では嫌だった。
叔父さんには大変なお世話になり、
叔母さんには大変なお世話になっているのだが、、ご本人には「何も出来ないでごめんね。」 と、言われる。
これ以上ないと言うほどお世話になっているのだが、こういう人は本当に謙虚なのだ。
「何事も人に愛で貴まるるの兆しなれば、かりそめにもわたくし心なく、親切を旨とすべし。」
お手本を見習い、少しでも近づくべく、実践するべし。
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「色々な方にお世話になりながらただ生きているだけで、何も偉い事なんて無いんですよ。 一つ残念だと思う事があるとすれば、このまま、何も成さないで人生を終える事が残念です。 何も成してないですから。。」
と言うと。
「大変な状況でも自分ひとりで生活する事は大変な事なんだから、そうやって独りで生活する事を見せるだけでも大切な事をしているんだよ。」 と、言われた。
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