唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

大相撲 暴行事件に思う事。

2018-01-27 10:25:29 | インポート

 大相撲の世界では体罰やかわいがりが当たり前のように行われているようだが、自分にも思い当たる節がある。

 酔って殴ったり、蹴ったりはお互い様だからなんということは無かったし、
  組み手のときに痛めつけるのは、稽古だから仕方の無い事になる。
   もちろん、試合のときは相手をKOする事もあるし、酷いダメージを与える事も、もちろん自分がやられる事もある。


そういう事はどうでもいいのであって、何を言われようがスルーでいいと思っているが、
 一度だけ、飲み会の席で言い訳のきかない不祥事を起こした。

 一年生が入部して落ち着いてきた頃の飲み会で、、、、
  ひょんなことから誰の「でこピン」が一番効くか?と言う事で、一人の部員がでこピンを受けてそれを評価するという遊びが始まった。
 
 受けているのは新入生なのだが、2年生で、一人だけ先輩と上手くやり取りできる立場の部員だった。
 要するに新入生なのに意思疎通が上手く行っていて先輩に混じって楽しく飲めていたのだった。

 
 それが、段々とエスカレートしてきて、、、、、
   ある先輩部員がでこピン打っても「大丈夫です。」と、なった。

    また、同じ人間にでこピン打たれても、「大丈夫です。」 

      打つほうも段々むきになるが、 打たれる後輩も引かないで「大丈夫です。」。。。と。
        意地の張り合いのようになった。。その時、

 
 なんと、無防備な頭に肘うちを食らわしたのだ。

 流石に、2年生の新入生はその場にうずくまった。。。。。。
  
 そして、頭から流血。。。。。

  場が、一瞬にして凍りついた。 しかし、酔っているから後には引けない。。。のだッたのだろう。
 
 やった方が言い放った一言が未だに頭に残っている。
 「○○、頭にきたか? 悔しかったら強くなって組み手でかかってこい。 」
 
 
 頭を切っておいて、流血させておいてその言い方は無いと思ったが、何も言えないでその場を過ごしてしまった。

 当時、3年生で責任者として任されている立場の自分には大きな責任があった。
  その不祥事を流して新入生に大きな傷を負わせた。

 次の日、アパートを訪ねて申し訳なかったと謝ったが、暫くしてそいつは退部していきました。。

  本当にどうしようもない不祥事を起こしてしまったのです。
    当然、誰にも何も言われないでそのまま流れていったのでした。。。。。

思い出すにつれ、切ないし、申し訳なく思う。  

 


 

 

 


「体に良いから」では無く、粗食が食べたいから。

2018-01-23 18:20:54 | インポート


 いつかは死ぬ、体一つで。

 この感覚を知ったからか、必要以上に物を欲しがる事が無くなった。
 出来れば必要最低限のものだけで生きて生きたい、、使いやすい慣れたものだけで十分だと思うようになった。
  家も、今の住まいで十分だし、車はむしろ中古車を好む、しかも10年落ちぐらいが丁度良い。

 食も、元々、和食が好きで、20歳の頃雑誌のインタビューでは好きな食べ物を聞かれた時に、焼き魚定食と答えた事もあるほどだったが、最近は特に粗食を好むようになった。

 玄米、五分つき米、雑穀、小豆などを炊いて、味噌汁、おかずは焼き海苔、卯の花、納豆、豆腐、厚揚げ、梅干などで十分に満足する。 肉一切れや、ちくわ半分等でご飯が進んですぐに主食がなくなる。

 もちろん年齢のせいもあるのだろうが、、以前に比べて欲が無くなったように感じる。

 体のために我慢しているのではなく、むしろそれが気持ちいいのだ。

 但し、味噌や、醤油は本物を使いたい。 化学調味料や食品添加物、白米、白砂糖、精製塩、などは出来るだけ避けたい。

 浄化が進むと食の好みも変わると、、食事の量も少なくて済むと、、、言われているが、、、、
  心が変わると肉体も変わっていくのだと、好みも変わって行くのだと実感する。

  
  
  

  自家製あんこでおしるこ。
   

  頂いたおからで作った、卯の花。
  

 柑橘の皮を米と一緒に炊く。 野菜や果物は皮まで使う。

  

 


その分、心のリハビリが進むようで。。

2018-01-22 15:38:17 | インポート

 体は病気をきっかけにずっと何十年もかけてどんどんと深みに向かってきた。
  そもそも、歪んだ精神が元凶になっていたのだと思うが、そんな事には全く気が付きもせずに唯ひたすら我慢する事、一生懸命にやる事で免罪符を得るような感覚で生きていたのだから当たり前だ。

 もう、20年近く世間とは隔離された蟄居状態が続いているが、これも必要だったのかもしれない。

 どうにも厄介な性格の持ち主だから、一般世間で生活し他人と関わればすぐに引っ掛かりが出来て心にさくれが出来る。
 そんな状態で一般社会に過ごしていたなら、症状はどんどん厄介になってたのだろう。

 それを、体が壊れた事で、世間と関わらずに生きていれば内省の機会にも恵まれ、色々と精神の構造を学ぶ事もある。 
 そんな中から、少しずつ、少しずつ、自分の間違いに気付き、修正方法を学び、実践し、少しずつではあるが心の状態が変わってきた。

 今では、敏感に心に響く事も少なくなり、やっと安心して生活を送れるレベルになってきたようで、
これらを得るために病気になったのだと思えば、20年の年月も安いものかも知れない。

 病気になり、蟄居生活。。内省から、少しずつの精神の改善。
   心のリハビリには最適な環境を与えてもらっていたのかもしれない。
 

 病気や障害を持ちながら生きていくことはもちろん大変な事だが、 
 片や、実社会で健康な人が全速力でストレスまみれで競争し、働いたり仕事をしたりする事もこれまた厳しい事でどちらが楽かは解らない。
 毎日毎日、自宅療養者は、朝決まった時間に出社する必要も無いのだから。
 
 自分からリタイヤすれば色々と困る事はあるが、戦いを止めてタオルを投げ入れた人間には、それなりの人生を提供してもらえるような。。。。。

 (実際には多くの方に迷惑をかけ、お世話になって成立しているのだが、、、、)

  天の元での人生は、そんな事が担保されているようにも感じる。
   少なくても自分にはそう感じさせてくれる人生なので。。。。 感謝します。

健康を取り戻すため、出来る事をやるだけ。それだけ。

 

 

 

炭火の焼き芋うまい。


 

 
 

 
 


酸欠なのにそうでもない。

2018-01-21 20:04:07 | インポート

 しっかし
 人間の体の順応力とはすごいもんで、、、
  酸欠で苦しいのだが、動ける事は動けるようになるものなのだと知った。。。

 今や、酸素濃度が80になっても動ける。
 酸素生活当初は90を切る事などそれほど無かったがそれでも失禁するほど苦しかったのが、今や気になって計ると大抵は80台、70台も出る。 

   
  
  

 酸素を吸い始めた頃、親しい看護婦さんに、
「段々慣れてくると低酸素でも動けてしまうんですよ。。たまに80とかで平気で動いている患者さんがいるんですけど、急に倒れてしまったり危ないんです。。。。時期にそうなると思いますよ。」

 などと、言われた事を思い出すのだが、、と言うより、そういわれたことが、記憶から消えないでいたが、、
とうとう自分もそうなった。

 動けるが、体は酸欠で苦しんでいるのがよくわかる。。特に内臓、筋肉。

食事の後は消化に酸素を使うからなのだろう、、苦しくて嫌な時間が待っている。
 そして、何より食べ過ぎれば消化に影響が出る。 UC持ちだから、一層困る。
 体幹リセットなどという極々簡単な筋トレをするも、筋肉が酸欠でどうも回復が遅いのだ。

 酸欠だと筋肉の回復は遅い。 競技をやっていた当時、疲れやすくて、疲れが抜けなかったが、これは自分の心配能力が劣っていたからだと、、今頃になって気がつく。


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 当時は、根性無いと怒られていたが、、根性じゃ無かったんですよ。
 劇症心筋炎になった心臓。 その後、間質性肺炎になった肺。 多分生まれ付き心肺が弱かったのだろうと思う。

 父親は幼少時に肺炎で肺が何分の一か機能不全だったと晩年知った。
 母親は弁膜症で何度か手術をしている、兄弟には心臓病で無くなった人もいる。
  そんな環境だったのだから、心肺が強いはずがない。 そんな中、われながらよく頑張ったものだ。

 潰瘍性大腸炎も激しい運動をするのが原因だと言われたこともある。
心肺が弱いのだから尚更体に負担がかかっていたと思う。

 長距離の練習中によくトイレに行って、サボるなと怒られていたが、当時もうUCがはじまっていたのだと思う。

自分の体の能力以上に動いてしまえば、有効なトレーニングでは無く、体を壊す事にはたらく。
 きつい練習して体を壊してしまうのだから、、なんとも馬鹿な異をしていたものだ。
  そして体には申し訳ないことをしていたものだ、、、自分の我がままで。。。。。

 こうやってたどると、、随分と長い間病気がつながって来たのだと言う事がよく解る。

 


 


最後は何とかなる。

2018-01-20 19:00:14 | インポート

 前回遠出した時の事。
 (ここのマンションは、「冬季常駐者の駐車場利用不可」という私にとって困った規定がある。
 何度もここで書いてきたが、本当に人間の我がなす最低の事だ。)

 仕方なく、町内に勝手に公共スペースに確保して置かせてもらっているのだが、 遠出から帰ってきて駐車してタクシーで自宅マンションへ帰ろうとしたのだが、どこのタクシー会社もつかまらなかった。
 そういえば、3連休の中日でスキー客が多いのだった。

 仕方なく一社に食らいつき、時間がかかってもいいから駐車場で待っているとお願いして了解を取った。

 しかし、中々来ない。 約束ブッチされたかな。。。。 仕方なくとうとう痺れを切らして歩いていく決断をした。

 外に出て、結構行けると思ったが、ものの数十メートルでその自信は砕かれた。 普段数十メール歩くのがやっとなのだから当たり前だ。 加えて、寒さが尋常ではなく 顔がこおばる。
 暫し足を止めて、考えた末、戻る事にした。 
 しかし、どう考えてもこれでは帰れない、やっぱり歩くしかないと、また振り返って歩き出す。

 取りあえず駅を目指す。たった150メートルの距離なのだが恐ろしく遠く感じた。
 歩いては止まり、また歩いては止まり、息を整えながら少しづつ進んで行くが、寒さでどんどん弱っていくのが解る。
 町中の商店街を歩いているのだが、気分的には、雪山での行軍のようだった。
 途中、どうしても動けなくなり銭湯帰りのおじさんが軽自動車に乗り込むのを見たときは、思い切って声をかけて自宅まで送ってくれないかと聞こうとした。
 
 しかし、声をかけるまで近寄れないのだ。。。。。
 仕方なく歩き、タクシーが来るので手を上げるが当然実車中でなんともむなしく通り過ぎていく。

 何度も止まりながらやっと駅の駐車場の端にたどり着く。 まだ、タクシー乗り場までは50メートルくらいあり気が遠くなりそうな距離だった。

 その時、携帯がなった。 先ほど約束したタクシー会社からだった。
「駐車場へ行っても見つからないそうです。」 痺れを切らして歩き始めて今駅のところまで来たと告げると、こちらに向かってくれるという。

助かった。 本当に助かった。寒いし、息が苦しいし、足も動かないしどうなる事かと思ったが、最後の最後に救われた。

 駅からマンションは今までの倍の距離があり、しかも元気な人でも息が切れるのぼり坂なのだ。
 タクシーが来てくれなったら、大変な事になっていた。
 
 しかし、一時はどうなるのか、息が苦しく倒れるのかなどと考えて歩いてきたが、最後は何とかなるのだ。。

 不思議に、最後は何とかなるのだ。  いつもそうなってきたように。