新年あけましておめでとうございます。
さて、昨年末京都を訪れたことは、既に書いた。
一昨年、清水寺や銀開寺など京都の東部と高雄を訪れたので、今回は嵯峨野を訪れた。
広隆寺、大覚寺、直指庵(じきしあん)、龍安寺、金閣寺を二日間かけて巡った。
どこも素晴らしい庭園であったが、最も心ひかれたのが、直指庵であった。
まずは、写真を見てほしい。
ご覧いただいた写真は、いずれも「私」が見たものである。
そう、直指庵は何を見るかは、全く見る者の心に委ねられている。
見た物、写真にとった被写体が見る者の世界であり宇宙である。
写真の竹林も太陽の動きとともに刻々とその姿を変えていく。
「何を見るかは、あなたの自由。あなたの見たものがあなたの世界であり、あなた自身である」と言っているようである。
決して強制しない、決して無理じいしない。
しかもすごいのは、1646年に独照性円がこの地に草庵を結んで以来、続いているということである。
一つ一つの素材が生きている。
そして、それら一つ一つが自分と同じ時間を生きている。
しかも、時空を超えて永続しているように。
それもわずかな山あいの谷に。
一見何もないようだが、見る者が無の中に有(見る物)を見い出す。
無の中に有がある。
有の中に無がある。
それが直指庵なのである。
私が最も心ひかれたのが、この一輪の花である。
水鉢にさりげなく置かれた花に、飾り気や美しさを誇ろうとする様子は、一つも感じられない。
しかし、この一輪の花にこの宇宙全ての美と水鉢に花を用意した庵の人の心を感じとるのは、私だけだろうか。
※写真はニコンD80を使用。
最後の写真が、端的に直指庵をうつしています。
しかし、全体としての雰囲気は、直接その場に自分の身を置かれるとよいと思います。
さて、昨年末京都を訪れたことは、既に書いた。
一昨年、清水寺や銀開寺など京都の東部と高雄を訪れたので、今回は嵯峨野を訪れた。
広隆寺、大覚寺、直指庵(じきしあん)、龍安寺、金閣寺を二日間かけて巡った。
どこも素晴らしい庭園であったが、最も心ひかれたのが、直指庵であった。
まずは、写真を見てほしい。
ご覧いただいた写真は、いずれも「私」が見たものである。
そう、直指庵は何を見るかは、全く見る者の心に委ねられている。
見た物、写真にとった被写体が見る者の世界であり宇宙である。
写真の竹林も太陽の動きとともに刻々とその姿を変えていく。
「何を見るかは、あなたの自由。あなたの見たものがあなたの世界であり、あなた自身である」と言っているようである。
決して強制しない、決して無理じいしない。
しかもすごいのは、1646年に独照性円がこの地に草庵を結んで以来、続いているということである。
一つ一つの素材が生きている。
そして、それら一つ一つが自分と同じ時間を生きている。
しかも、時空を超えて永続しているように。
それもわずかな山あいの谷に。
一見何もないようだが、見る者が無の中に有(見る物)を見い出す。
無の中に有がある。
有の中に無がある。
それが直指庵なのである。
私が最も心ひかれたのが、この一輪の花である。
水鉢にさりげなく置かれた花に、飾り気や美しさを誇ろうとする様子は、一つも感じられない。
しかし、この一輪の花にこの宇宙全ての美と水鉢に花を用意した庵の人の心を感じとるのは、私だけだろうか。
※写真はニコンD80を使用。
最後の写真が、端的に直指庵をうつしています。
しかし、全体としての雰囲気は、直接その場に自分の身を置かれるとよいと思います。