明日は明日の風が吹く

60にしておひとりさまに。
この先、どんな人生になるのやら?

夫の実家への帰省

2014-12-29 | ひとりごと
一年の中で盆と正月が一番キライだった。

毎年この時期になると、
あ~あ、またあの家に行かなくちゃ。ヨメしなくちゃ…と憂鬱になったものだ。


元夫の実家は最寄駅から車で20分以上かかる 田舎 田園地帯にある。
周りは田んぼ、畑、墓、田んぼ、田んぼ…
戦前までは代々続く大農家だったらしく、多くの小作人を使っていたそうな。
築500年とかの古い家で、建て替えを工務店に頼んでも、
こんな立派な大黒柱を取り壊すなんて出来ないと断られたそうな。
いつも元夫が自慢げに話していた。

元夫はその 御大層な 家の長男だった。
下に弟と妹がいるが、「お前は長男だから家を継げ」と
両親に言われて育った(らしい)。
でも元夫はそれがイヤで、進学先は関東の大学を選び、サラリーマンになった……。


結婚して子どもが出来ると、
毎年、盆・正月・ゴールデンウィークには孫の顔を見せるために実家へ帰った。
どの時期も新幹線はメチャ混み。
自由席に並ぶのだが(元夫は指定が嫌い。何時何分と決められるのがイヤという理由)、
座れない時は子どもを抱きながら立って帰ったこともある。

そうやって疲れ切って帰っても、
そんな苦労は義両親にはわかるはずもない。

「長男やのに勝手にサラリーマンなんかになって、
 関東なんかに住むから、帰省のたびにしんどい目に遭うんや」

「あんな狭いウサギ小屋が○千万か。ここに大きな家があるのに」

「長男の役目はどうするんや。いつ帰ってきて一緒に住むんや。
 ワシらも年取った。アンタ(私のこと)と子どもだけでもこっちへ来てくれや」

「ダレソレさんとこの息子は市役所に勤めてる。
 オマエ(元夫)も役所勤めやったら(一緒に住めて)よかったのに」

「跡を継いで老後の面倒見てくれたら、土地財産も全部継がせる」

エトセトラ、エトセトラ…。

この手の話を延々とされるのが実家での正月の恒例だった。
それがイヤでイヤで
それをイエスでもなくノーでもなく曖昧に誤魔化している元夫の態度もイヤで


今から思えば、当時義両親はまだ60歳前後。
ということは、今の私と同じ年ごろでこんなことばっかり言ってたわけだ。


私も最初の頃こそおとなしくしていたけれど、
いつもいつも黙って言われっぱなしではない。

ウサギ小屋と言われた時はマジでキレた
子どもを連れて帰ってこいと言われた時には、
自分の息子の家族をバラバラにしてまで同居してほしいですか と吼えたものだ


子どもが中学生ぐらいになると休みにも部活があって
それを理由に帰省する回数も減ったけれど、
それでも何とかして年に数回は帰っていた。

そのうち、新幹線から在来線に乗り換えて実家のある駅に近づくと
気分が悪くなり、吐き気がするようになった。


或る正月など義弟と義妹の亭主に
「親の面倒見る気があるのかないのか」と
酔った勢いで私がつるし上げられたこともあった。
その時、元夫は狸寝入をして(呆)、私をかばってもくれなかった。

どうやら私のいないところで元夫は、
自分は帰る意思があるのだが、私が反対しているから帰れない。
とすべて私のせいにしているようだった。



田舎がすべてそうではないだろうが、
まだまだ田舎は封建的だ。古い考え方、古いイエ制度が沁みついている。
長男は家を継ぐべし。女は、嫁はこうあるべし。


余談だが、
息子の初節句の祝の席に、嫁である私のお膳はなかった。
(台所で下働きさせられた)
義父の葬儀の際には、会食に出るのは男だけだった。
(女は家でお供えの仕分け作業)

こういうのをおかしいとも思わない、
それが元夫の家だけなのか、その地方のしきたりなのか、知らないが、
とても私には理不尽に思え、そんな土地柄にはとうてい馴染めそうもなかった。

離婚を決意して、ある意味開き直ってからはラクになったし、
離婚して元夫も亡くなって、すっかりあの家と縁が切れた今は
年末年始の苦行から解放された。


自分も姑となった今、
自分が味わったような思いは絶対に息子の奥さんにはさせまいと決めている。
何もなくても、夫の実家に行くというのは正直、妻にとって気の重いものだから。