◎なにもかもなしであるはずの禅
世界中のトップエリートが集う禅の教室(川上全龍/角川書店)では、相変わらずの禅をやるメリット強調の信者集めと『なにもかもなし』であるはずの純禅の相剋を改めて感じさせられたものだ。
唐末の禅僧趙州は、120歳の人生を極貧に生きた。いつも脚を補修した椅子に坐って人に応対したが、信者等から新品や中古のちゃんとした椅子を上げると言われてもすべて断り、別の部材で脚を補修し、その壊れ椅子をなおも使い続けたという。
それでも何の問題もないことを知っていた。
そういう家族も持たない、財産も持たない純禅の師家本来のありかたの方を強調せず、スティーブ・ジョブズなど有名人が参加しているなどと関係ないことで客引きをするなど、その姿勢が問われる。
普化は、臨済と一緒の食事招待の席で、テーブルを蹴り倒したが、そういうあり方では、テーブルを蹴り倒されようというものだ。普化は、死んで棺桶に入ったのではなく、棺桶に入ってから死んだ。
ダンテス・ダイジの詩に
『楽しさをあこがれ続けるらしい
運命はあるらしい
冬が終わって春が始まるように
運命を改善するテクニックもある
天命に流されるというのもある
地獄のどうどう巡りもあるだろう
これも過ぎ去る
変易しないものが何一つないのであれば
一体、人間性という渇望に
何が言えるというのだ
それでも人間性は
楽しさをあこがれ続けるらしい』
というのがある。(老子狂言から)
現代人は禅だけではつまらないところまで来たのかもしれない。
世界中のトップエリートが集う禅の教室(川上全龍/角川書店)では、相変わらずの禅をやるメリット強調の信者集めと『なにもかもなし』であるはずの純禅の相剋を改めて感じさせられたものだ。
唐末の禅僧趙州は、120歳の人生を極貧に生きた。いつも脚を補修した椅子に坐って人に応対したが、信者等から新品や中古のちゃんとした椅子を上げると言われてもすべて断り、別の部材で脚を補修し、その壊れ椅子をなおも使い続けたという。
それでも何の問題もないことを知っていた。
そういう家族も持たない、財産も持たない純禅の師家本来のありかたの方を強調せず、スティーブ・ジョブズなど有名人が参加しているなどと関係ないことで客引きをするなど、その姿勢が問われる。
普化は、臨済と一緒の食事招待の席で、テーブルを蹴り倒したが、そういうあり方では、テーブルを蹴り倒されようというものだ。普化は、死んで棺桶に入ったのではなく、棺桶に入ってから死んだ。
ダンテス・ダイジの詩に
『楽しさをあこがれ続けるらしい
運命はあるらしい
冬が終わって春が始まるように
運命を改善するテクニックもある
天命に流されるというのもある
地獄のどうどう巡りもあるだろう
これも過ぎ去る
変易しないものが何一つないのであれば
一体、人間性という渇望に
何が言えるというのだ
それでも人間性は
楽しさをあこがれ続けるらしい』
というのがある。(老子狂言から)
現代人は禅だけではつまらないところまで来たのかもしれない。